名前 | 西園寺公宗 |
読み方 | さいおんじきんむね |
時代 | 鎌倉時代ー建武の新政 |
コメント | 後醍醐天皇を暗殺し鎌倉幕府再興計画を画策した。 |
西園寺公宗は後醍醐天皇を暗殺し、鎌倉幕府を再興しようとした人物です。
鎌倉時代には関東申次となり権勢を得ていた西園寺家ですが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼした事で西園寺公宗は勢いを喪失しました。
西園寺公宗は北条泰家と結託し、後醍醐天皇暗殺計画を企てますが弟の西園寺公重の密告により捕縛されています。
西園寺公宗は出雲に配流される予定でしたが、名和長年の勘違いにより最後を迎えました。
西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画は「幻の鎌倉幕府再興計画」として注目されている状態です。
尚、歴代天皇の中で臣下に暗殺されたのは、蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇のみであり、それを考えると西園寺公宗は、かなりの大それたことを実行しようとした事になります。
幻の鎌倉幕府成功計画と西園寺公宗の動画も既に作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
名門西園寺家
西園寺家は北家閑院流であり、公家社会では摂関家に次ぐ家格を有していました。
後鳥羽上皇による承久の乱では西園寺公経が京都の情報を鎌倉幕府に流し、幕府軍の勝利に貢献し幕府の信頼を得ています。
西園寺公経は太政大臣にもなり、天皇の外戚として権勢を持ち、鎌倉幕府と朝廷の橋渡し役である関東申次にも就任しました。
関東申次に就任した事で、西園寺家は摂関家を凌ぐほどの権勢を得ています。
西園寺家は鎌倉幕府と繋がる事で権勢を持ちますが、鎌倉幕府の後期に朝廷は大覚寺統と持明院統に分裂する両統迭立となりました。
西園寺家は持明院統と深く繋がり、光厳天皇や光明天皇とは従兄弟の関係だったわけです。
後醍醐天皇や護良親王による元弘の乱が勃発すると、西園寺公宗は後伏見上皇や量仁親王(光厳天皇)と共に六波羅探題に避難しています。
後醍醐天皇を取り調べる
後醍醐天皇は笠置山城の戦いに敗れ捕虜となりました。
西園寺公宗は六波羅探題の北条時益の邸宅において、後醍醐天皇の取り調べを行った話があります。
さらに、西園寺公宗は後醍醐天皇の皇子である恒良親王、成良親王、義良親王の身柄を預かり、後醍醐天皇の計画に加担した者たちの処分にも関わりました。
後醍醐天皇は隠岐に流される事になりますが、討幕は護良親王や楠木正成により継続される事になります。
これらの事から西園寺公宗が鎌倉幕府や持明院統と深く繋がり権勢を得ていた事が分かるはずです。
落日の西園寺家
護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成が千早城で籠城戦を展開し幕府軍を翻弄しました。
後醍醐天皇も隠岐を脱出し、足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし新田義貞が鎌倉を陥落させています。
西園寺公宗の権力の後ろ盾となっていた鎌倉幕府は1333年の暮れに滅亡してしまったわけです。
西園寺公宗は鎌倉幕府と朝廷の橋渡しである関東申次により権勢を得ていましたが、鎌倉幕府自体が無くなってしまえば関東申次の役職も無用のものとなりました。
さらに、西園寺家の伊予の知行地も建武の新政で没収されており、朝廷の役職も権大納言となります。
過去には西園寺家から太政大臣も輩出していたわけであり、鎌倉幕府の滅亡により大きく権勢を落したと言えるでしょう。
西園寺公宗としては、何とか衰える家を立て直したいと考えていたはずです。
珣子内親王
後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、持明院統にも気を遣っています。
後醍醐天皇は持明院統の後伏見法王と西園寺寧子の子である珣子内親王を中宮として立后としました。
珣子内親王は光厳天皇や光明天皇とは兄妹であり、母親の西園寺寧子は西園寺公宗の一族の娘となります。
ここで珣子内親王が男子を産み後醍醐天皇の後継者として天皇になるのであれば、西園寺家も再び権勢を得る事が可能だったわけです。
この時点では後醍醐天皇の皇太子として恒良親王がいましたが、中宮の珣子内親王が生んだ子となれば、新たに立太子される可能性が出て来た事でしょう。
珣子内親王は直ぐに妊娠し後醍醐天皇は66回も祈祷を行い光厳上皇や西園寺公宗も積極的に参加しています。
しかし、珣子内親王が生んだ子は幸子内親王であり女児だったわけです。
女性が天皇になった例は推古天皇などありますが、当時で考えれば殆ど例がなく珣子内親王に女児が誕生した時点で、西園寺公宗は絶望したとも考えられています。
尚、珣子内親王が男子を生む可能性があった時点では、西園寺公宗は謀反を起こそうなど考えてもいなかったはずです。
鎌倉幕府復興計画
旧幕府勢力との連携
西園寺公宗は「このままでは西園寺は自分の代で落ちぶれてしまう」と危機感を持ったとしてもおかしくはないでしょう。
西園寺公宗は北条泰家を匿うなど不穏な動きを見せる様になります。
珣子内親王が再び懐妊するのを待つ方法もありましたが、西園寺公宗は建武政権の転覆を考えました。
建武政権では旧北条氏による反乱が相次いでおり、西園寺公宗は鎌倉幕府が再興すれば西園寺家の復活もありえると考えたはずです。
西園寺公宗は信濃の諏訪頼重に匿われている北条時行や北陸の名越時兼と共に挙兵する計画があったとされています。
西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画
西園寺公宗は建武政権に対する反乱を画策するだけではなく、後醍醐天皇の暗殺も企てたとされています。
西園寺公宗による後醍醐天皇の暗殺計画は西園寺家の別荘である北山山荘に後醍醐天皇を招き、湯殿の脱衣所に仕掛けをして床が抜ける様になっており、後醍醐天皇が床から落ちた所で地面に設置した刀が天皇を貫くという仕組みだったとされています。
旧幕府勢力と繋がった西園寺公宗は持明院統の皇族が天皇として即位し西園寺公宗は朝廷の有力者になろうとしたわけです。
北条氏が再び天下を取る計画であった事から、鎌倉幕府再興計画だったとも言えるでしょう。
余談ですが、西園寺公宗が後醍醐天皇を招こうとした北山山荘のあった場所に足利義満は金閣寺を建てています。
西園寺公重の密告
西園寺公宗の野望を危ぶんだのが、弟の西園寺公重です。
西園寺公重は後醍醐天皇に西園寺公宗の事を密告しました。
ここで後醍醐天皇は素早く動き持明院統の後伏見法王を京極殿に移し、西園寺公宗の野望に加担した者達を逮捕したわけです。
これにより橋本俊季、日野氏光、三善文衡、中原清景らが捕らえられています。
日野氏光の父親である日野資名は陰謀を知りながらも、朝廷に報告しなかった事で連座して捕らえられました。
西園寺公宗のクーデターを未然に防ぐために、楠木正成や高師直も出動し建仁寺前に向かいました。
西園寺公宗も呆気なく捕まる事になります。
これにより鎌倉幕府再興計画は幻に終わりました。
西園寺公宗の最後
捕らえられた西園寺公宗ですが、出雲への島流しが決定しました。
しかし、ここで西園寺公宗の身に不幸な出来事が起こる事になります。
西園寺公宗の身柄は中院定平が預かっていましたが、名和長年に「早く」と伝えました。
中院定平は「早く流罪先の出雲に連れていけ」とする意味で述べたわけですが、名和長年は「さっさと処刑しろ」の意味で捉えたわけです。
名和長年は勘違いを起こし西園寺公宗の妻の前で処刑してしまいました。
西園寺公宗の子孫
西園寺公宗は亡くなりましたが、家督は西園寺公重が継ぐ事になりました。
西園寺公重は兄の事を密告した功績により家督を継ぎ伊予の領土も還って来たわけです。
西園寺公宗が処刑された時に妻の日野名子のお腹には子がいました。
この子が西園寺実俊です。
南北朝時代が始まると西園寺公重は南朝に仕えますが、西園寺実俊は北朝に仕えています。
北朝は西園寺家の後継者を西園寺実俊だと認めており、西園寺公宗の子孫は続く事になりました。
幻の鎌倉幕府再興計画と西園寺公宗の動画
幻の鎌倉幕府再興計画と西園寺公宗のゆっくり解説動画となっております。
この記事及び動画は吉川弘文館『南朝の真実 忠臣という幻想』をベースに作成しました。