春秋戦国時代

祭足(祭仲)は鄭で強い力を持った

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宮下悠史

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名前祭足(さいそく)
別名祭仲
生没年生年不明ー紀元前782年
コメント鄭の朝廷で強い力を持った。

祭足は鄭の荘公に見いだされ、鄭において強い力を発揮した人物です。

春秋左氏伝や史記では祭仲と書かれる事が多いです。

祭足はの封人だったとあり、国境役人だった記録があります。

スタートは国境役人であったかも知れませんが、祭足は鄭の荘公に気に入られ卿にまでなりました。

鄭の荘公が亡くなると、一旦は鄭の昭公を立てますが、宋の意向もあり鄭の厲公を即位させています。

後に鄭の厲公は祭足の権力の強さを憂えて出奔しました。

祭足は鄭の昭公を復帰させ、子亹に仕え鄭子の時代に世を去る事になります。

尚、歴史作家の宮城谷昌光先生は春秋名臣列伝において、名臣の中の一人として祭足を選びました。

共叔段の危険性を指摘

鄭の荘公鄭の武公の後継者として立ちますが、母親の武姜の願いもあり弟の共叔段を京に封じました。

共叔段が共に封じられたのをみて危ぶんだのが、祭足であり、次の様に述べました。

※春秋左氏伝より

祭足「周囲が百雉を超える城郭を構えた邑は、国都にとっても脅威です。

古来の制度では大きな邑でも国都の三分の一、中は五分の一、小は九分の一の決まりとなっています。

しかし、京の邑の城郭は規定を超えており、これでは、取り返しがつかない様な問題が起きてしまいます」

祭足は共叔段を危険視しており、鄭の荘公を諫めたわけです。

しかし、鄭の荘公は母親の武姜の願いだから、害になっても仕方がないとし、祭足を進言を却下しました。

祭足も引き下がらず、さらに、次の様に続ける事になります。

祭足「姜氏(武姜)の欲には限度がありません。

迅速に対処しなければ、手の打ちようがなくなります。

草でも蔓延れば手の打ちようがなくなるのに、相手(共叔段)は母親に可愛がられている弟君です」

祭足は鄭の荘公を強く諫めますが「不義の行為が重なればきっと自滅する。もう少し様子をみるべきだ」と応えました。

鄭の荘公が動かず、祭足としてみれば、やきもきしたかと思いますが、展開は鄭の荘公が思った通りに進む事になります。

この後に、公子呂も鄭の荘公を諫めますが、鄭の荘公は従いませんでした。

共叔段は驕慢になり勢力を拡げますが、鄭の荘公や公子呂に敗れ、共に出奔する事になります。

鄭の荘公と武姜が対立もしましたが、潁考叔の計らいもあり和解しました。

東周王朝の麦を刈り取る

周の平王が崩御すると、周の桓王が立ちますが、東周王朝の人々は虢公に卿士の位を与えようとしました。

周の桓王としては、鄭が王朝内で幅を利かす事を嫌がり、鄭の権限を削り虢公には対抗馬になって貰いたかったのでしょう。

春秋左氏伝によると、紀元前720年に鄭の大夫の祭足が軍を率いて周の温の麦を刈り取り、秋になると成周の穀物を刈り取ったとあります。

祭足が穀物を刈り取った事で、鄭と東周王朝の仲は険悪となりました。

東周王朝の麦を刈り取るなどの行為は当然ながら、祭足が独断で行ったわけではなく、鄭の荘公の命令でやったのでしょう。

記録にはありませんが、鄭の荘公に周の麦や穀物を刈り取る様に進言したのは、祭足だったのかも知れません。

南燕との戦い

衛の桓公は州吁により殺害されますが、州吁は共叔段と誼を結びました。

鄭の荘公は宋から出奔して来た公子馮を匿っており、宋との仲も悪かったわけです。

こうした中で衛、宋、陳、蔡、衛の連合軍が鄭を攻撃し、鄭の荘公は籠城し連合軍は撤退しました。

紀元前718年に鄭は報復戦争を行うと、衛は南燕の軍と共に鄭を攻撃する事になります。

この戦いで祭足も出陣し南燕の軍と対峙しました。

祭足、原繁、洩駕が正面におり、背後に曼伯と子元が敵の背後におり、南燕の軍を打ち破った話があります。

この戦いで最初に祭足の名前が登場しており、鄭軍の総大将は祭足だったと考える事も出来るはずです。

繻葛の戦い

紀元前798年に周の桓王と鄭の荘公の対立が頂点に達し、繻葛の戦いが勃発しました。

繻葛の戦いでは周の桓王が自ら兵を率いて参戦し、鄭の荘公は公子忽、公子突らと共に参戦し、この戦いで祭足も鄭の左翼軍を率いる将として出陣しています。

周の桓王は蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃しますが、戦いに敗れ自身も肩を負傷し退却しました。

鄭の祝聃は追撃を主張しますが、鄭の荘公は周の桓王を気遣い祭足を派遣し慰問させた話があります。

祭足は礼に関しても詳しく、戦場とは言え周の桓王の前に出しても恥ずかしくない人物であり、鄭の荘公も派遣したのでしょう。

公子忽と祭足

最大の支持者

過去に祭足は鄭の荘公の為に、から鄧曼を迎え夫人としました。

当然ながら、ここでいう鄧曼は楚の武王の夫人である鄧曼とは別人物です。

鄧曼は公子忽を生み太子となりました。

こうした事情から公子忽の最大の支持者が、祭足だったとみる事が出来ます。

公子忽を諫める

過去に斉が北戎の攻撃を受けると、鄭の荘公公子忽を援軍として派遣した事がありました。

北戎を退けると、斉の僖公は文姜を公子忽に娶らせようとしますが、公子忽は断りました。

紀元前706年にも公子忽は斉を援けますが、斉の僖公はまた別の女性を娶らせようと考えたわけです。

しかし、公子忽はここでも斉との縁談を断わっています。

公子忽の斉との縁談を断わった話は君子からは評価される事になりますが、祭足は別の考えを持っており「是非とも迎え入れるべき」と強く主張しました。

祭足は公子忽に次の様に述べています。

※春秋左氏伝より

「我が君(鄭の荘公)には寵姫が多く、貴方には大きな後ろ盾が必要です。

さもないと位に就く事が出来ません。

三公士の公子突、公子亹、公子儀は生母が鄭の荘公に寵愛されており、皆が国君となる資格があります」

祭足は公子忽が鄭の君主になる為には、大国である斉の後押しが必要だと説いたわけです。

しかし、公子忽は体裁を気にし、斉の公女を迎えようとしませんでした。

ここでも、祭足は歯がゆい思いをしたのではないでしょうか。

個人的な意見となってしまいますが、この後の事を考えると、鄭は混乱し弱体化しており、ここで公子忽が祭足の進言を聴き入れ、斉から公女を迎えていれば、鄭の混乱はなかった可能性もあると感じました。

祭足が宋に要求を呑まされる

鄭の昭公が立ちますが、宋では宋出身の雍姞が生んだ公子突を宋の君主に立てたいと考えました。

宋の荘公は祭足を宋におびきよせ「公子突を立てぬと命はない」と脅し、公子突も宋に拘留する事になります。

さらに、宋の荘公が多額の物品をも要求しますが、祭足は呑むしかなかったのでしょう。

祭足は宋の人々と盟約を行い公子突と共に帰国し、公子突を君主として立てました。

公子突が鄭の厲公であり、鄭の昭公は衛に出奔する事になります。

後の事を考えれば、祭足は、諸侯に対してかなり用心深くなったと言えるでしょう。

鄭の厲公の出奔

鄭の厲公は即位して4年が経った紀元前697年に、祭足を排除しようとしました。

史記には祭仲が国政をほしいままにし、鄭の厲公が憂えたとあり、祭足の力が如何に強いのかが分かる話でもあります。

鄭の厲公は祭足の娘婿である雍糾を使って、祭足を殺害しようとしますが、祭足の娘婿である雍姫の密告により、事件は露見しました。

雍姫は夫と父の狭間で困惑したと思いますが、母親の言葉もあり、祭足に伝えたわけです。

祭足も娘の気持ちを考えると、心が痛かったとは思いますが、ここで動かなければ、一族は滅亡する可能性もあり、雍糾を捕らえ殺害しまいました。

鄭の厲公は蔡に出奔し、祭足は鄭の昭公を迎え入れ鄭に君主としました。

祭足は悪びれない

鄭の昭公は紀元前695年に、高渠弥により射殺されました。

史記によると、祭足は高渠弥が鄭の厲公を立てようとするも反対し、子亹を立てたとあります。

子亹は鄭の君主となりますが、過去に斉の襄公の恨みを買っており、互いに憎み合っていました。

紀元前694年に斉の襄公が首止の会を開くと、子亹は参加しようとしますが、祭足は参加してはならないと伝える事になります。

子亹は首止の会に参加しなければ、斉の襄公が諸侯の軍を率いて攻めて来ると考え、会合に参加する為に出発しました。

子亹と高渠弥は出かけますが、祭足は病と称して参加しなかったわけです。

祭足は斉の襄公が子亹だけではなく、自分も殺害する可能性があると考えました。

祭足の予感は的中し、斉の襄公は子亹を殺害し、高渠弥は逃げ帰って来たわけです。

春秋左氏伝によると、ある人が「祭仲は事件を予見し災禍を逃れた」というと、祭足は悪びれる事もなく「その通りだ」と応えた話があります。

祭足と高渠弥は陳から公子嬰を招き、鄭子として即位させました。

祭足の最後

史記の鄭世家によると、鄭子の12年に祭仲が亡くなったと記録されています。

紀元前682年に祭足は世を去った事になるのでしょう。

尚、祭足が亡くなった2年後である紀元前684年に、鄭の厲公が鄭子を殺害し、鄭に君主に返り咲きました。

鄭の厲公にしてみれば、祭足が亡くなったのは、鄭の君主復帰への好機と考えた可能性もあるはずです。

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