
祭は周公旦の子の一人が祭に封じられた事で始まった国です。
小国であり国としての実績などは、分かっている事が殆どありません。
史記の周本紀に祭公謀父が周の穆王を諫めた記述があり、祭公謀父が祭の君主だとも考えられています。
祭は西周王朝の時代を生き延びますが、春秋戦国時代になると鄭により滅亡しました。
ただし、紀元前750年に滅ぼされたとする説もあれば、春秋左氏伝に魯の隠公の元年(紀元前722年)に祭伯の記録があり、滅びていなかたっとする説もあります。
それでも、祭は後に鄭の邑となっており、鄭に滅ぼされた事だけは間違いないでしょう。
尚、鄭の荘公や鄭の昭公に仕えた祭足は、祭出身の役人だったとも、祭に封じられた事で「祭」が姓になったとも伝わっています。
祭の建国
周公旦の子が封じられる
一般的に祭の建国は、周の武王が殷を滅ぼした後に、周公旦の子の一人が祭に封じられたと考えられています。
ただし、祭の建国は殷の遺民が西周王朝を相手に蜂起した三監の乱の、後だったのではないかともされている状態です。
どのタイミングで祭が建国されたのかの、詳細は分からないとしか言いようがありません。
それでも、西周王朝の時代に祭が建国された事だけは間違いないのでしょう。
宮城谷説
歴史小説の大家である宮城谷昌光氏が、祭の建国に対しての面白い説を唱えていたので紹介します。
宮城谷昌光氏は、祭の初代が周の武王の弟である蔡叔度だと考えました。
周の武王が崩御し、周の成王が立つと三監の乱が勃発しますが、ここで管叔鮮が亡くなり、蔡叔度は追放されています。
蔡叔度は追放され祭を離れる事になり、代わりに祭に入ったのが、周公旦が子だと考えたわけです。
祭の滅亡の滅亡も含めて詳細に関しては、宮城谷昌光氏の春秋名臣列伝の祭足の記述を読むようにしてください。
西周王朝時代の祭
西周王朝の時代の祭に関しての記録は、史記の周本紀にあります。
周本紀によると、周の穆王が犬戎を攻撃しようとすると、祭公謀父が諫めました。
この祭公謀父が祭の君主なのでしょう。
史記の周本紀では祭公謀父が周の穆王を諫めた言葉が長文で掲載されています。
しかし、周の穆王は祭公謀父の進言を聞かず、犬戎の討伐を行いました。
周の穆王は犬戎との戦いで戦利品を獲た様ではありますが、荒服の者が来なくなったとあり、成功した様な失敗した様な書き方となっています。
それでも、西周王朝の時代に祭は周の穆王に意見できるだけの、国だった事も分かる事例です。
祭の滅亡
周の幽王の時代に西周王朝が崩壊すると、鄭の桓公は東虢や鄶を滅ぼし、祭の南に鄭の国を誕生させました。
鄭の桓公が紀元前760年頃までには亡くなり、祭は紀元前750年に鄭の武公により滅ぼされたと考えられています。
尚、紀元前750年は晋の文侯が周の携王を滅ぼし、周に二王朝並立を終わらせた年でもあります。
しかし、春秋左氏伝の魯の隠公の元年(紀元前722年)に、次の記述があります。
※春秋左氏伝より
冬十有二月、祭伯、来る
上記の春秋左氏伝の記述から、紀元前722年に祭伯が魯に来た事が分かるはずです。
春秋左氏伝には祭伯が魯にやってきた解説文もあり「祭伯、来るとあるのは、王命ではないからだ」とあります。
紀元前722年は東周王朝の周の平王の末期の時代であり、祭伯が周の平王の命令で来たわけではないという事なのでしょう。
魯は周公旦の子の伯禽が封じられ宗家となっており、紀元前722年に祭伯は宗家に挨拶に行ったとみる事が出来ます。
紀元前722年に魯に祭伯が挨拶に行ったのであれば、祭は滅亡しておらず、生き残っていた事になります。
ただし、これ以降の祭国に対しての記述は消えており、魯の成公の四年(紀元前587年)に名前が登場しますが、鄭の邑の一つになっています。
こうした事情から、祭がどの様にして滅んだのかは不明ですが、鄭により併呑された事は間違いないのでしょう。