名前 | 佐竹義宣(さたけよしのぶ) |
別名 | 義香、 |
生没年 | 1346年ー1389年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:佐竹義篤 兄弟:小場義躬、石塚宗義、大山義孝など |
子:佐竹義盛、佐竹義有、天然 | |
コメント | 鎌倉府に反旗を翻そうとするも未遂に終わったとされる |
佐竹義宣は佐竹義篤の子で南北朝時代に活躍した人物です。
観応の擾乱では僅か六歳で足利直義から忠節を評価された話が残っています。
小山義政の乱から始まる関東の混乱では、小田孝朝に味方し難台山の小田藤綱を支援していたとも考えられています。
ここで上手くいけば佐竹義宣も乱を起こしたとされていますが、結局は鎌倉府に協力しました。
尚、佐竹義宣が亡くなると子の佐竹義盛が後継者となっています。
六歳で感状
観応二年(1352年)には合戦での忠節を評価されています。
この時に、佐竹義宣は僅か六歳でした。
六歳の子供が自分の意思で戦況の判断が出来るとも思えず、父親の佐竹義篤や家臣たちが直義に味方する様に判断し、佐竹義宣が忠節を評価される結果になったのでしょう。
尚、佐竹義宣が直義に評価された戦いは、播磨光明寺合戦だと考えられており、足利尊氏が籠城する石塔頼房を攻めた戦いなのでしょう。
難台山の戦い
父親の佐竹義篤が亡くなると、佐竹氏の当主となります。
康暦二年(1380年)に小山義政が宇都宮基綱を討った事で、小山義政の乱が勃発しました。
鎌倉公方の足利氏満は小山義政の乱に上手く対処が出来ず、小山若犬丸の乱まで勃発しています。
こうした中で小田孝朝が小山若犬丸を匿っているとし、上杉朝宗が討伐しました。
これが小田孝朝の乱です。
小田孝朝の乱に佐竹義宣が関わったとする証拠はありません。
しかし、佐竹義宣の母親は小田知貞の娘であり、知貞は小田氏の一族の者でもあります。
難台山の戦いで鎌倉府の軍を迎え撃ったのは、小田五郎藤綱でした。
ただし、実際には岩間宍戸知連だったとも言われています。
難台山の麓にある涸沼川や石崎保は、佐竹義宣の姉(妹)にして小田孝朝の夫人に宛がわれていた所領でもあります。
こうした理由から難台山は佐竹氏からの援助を受けやすい場所だったと言えるでしょう。
難台山での籠城軍は1年近く粘りますが、最終的には佐竹義宣も鎌倉府に味方し陥落しました。
乱が未遂に終わった理由
難台山の籠城軍が一年近くも持ちこたえる事が出来たのは、佐竹氏の援助があったからだと考えられています。
小田藤綱が長期間に渡り籠城し、鎌倉府の求心力が低下すれば、佐竹義宣も乱を起こすつもりだったのではないかとされています。
しかし、直線的に反抗すれば鎌倉公方の足利氏満に睨まれ、小田氏が片付いた後は佐竹に兵を向けられる可能性も高く、長期間に渡り難台山への援助が続けば露見する恐れがあると考えたのでしょう。
結果として、佐竹義宣は鎌倉府への協力姿勢を見せる事になります。
逆に言えば難台山の籠城軍は佐竹義宣の援助が無くなれば、持ちこたえる事は不可能だったはずです。
尚、難台山の戦いで佐竹義宣自身は出陣しておらず、小野崎通郷、江戸通高が兵を率いて難台山に向かい、両道を断ち総攻撃で勝負を決めました。
これが未遂の終わった佐竹義宣の乱です。