名前 | 郷御前(さとごぜん) |
生没年 | 1168年ー1189年 |
時代 | 平安時代ー鎌倉時代 |
一族 | 父:河越重頼 母:河越尼 |
配偶者:源義経 | |
コメント | 源義経に殉じた女性 |
郷御前は源義経に嫁いだ女性です。
源義経は平氏を滅ぼしますが、源頼朝と不和になり面会も許されず落ちぶれて行く事になります。
しかし、郷御前は源義経を見捨てる事はなく、奥州の藤原秀衡を頼り平泉まで行くなど運命を共にしました。
源頼朝からしてみれば義経は危険人物であり、藤原泰衡を使い義経を亡き者にしようと館を囲ませました。
最後を悟った義経や郷御前は4歳の娘と共に自害しています。
当時の女性は旦那が落ちぶれれば、おさらばしてしまうのが普通であり、郷御前は最後まで義経に尽くした事で忠烈な女性だったと言えるでしょう。
郷御前の出自
郷御前は河越重頼と河越尼の間に出来た娘です。
河越尼の父親が比企掃部允であり、母親が比企尼となります。
比企尼は源頼朝の乳母をしており、河越尼は源頼家の乳母付けとなりました。
河越重頼は最初は平氏に従いますが、後に源頼朝に従う様になります。
こうした中で源頼朝の命令により、郷御前は源義経に嫁ぎました。
郷御前は源義経の正妻になったとも言われますが、実際には平安時代や鎌倉時代に正妻という概念はなく、源義経の妻の一人になったと言えるでしょう。
郷御前と源義経の間には娘がいた事も分かっています。
ただし、郷御前は源頼朝が決めた妻であり押付け妻だったともされているわけです。
義経と郷御前の逃避行
源義経は平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼす大功を挙げていますが、源頼朝と敵対する事になります。
郷御前は押付け妻であり、源義経はやろうと思えば離別する事が出来ましたが、離別しようとはしませんでした。
郷御前の方も義経を捨て源頼朝に服従すれば、女性である事も考慮され命は助かったと考えられています。
源義経は弁慶らと共に奥州平泉に逃げますが、郷御前も共に平泉に向かう事になります。
平泉には藤原秀衡がおり、義経一行は助けを求めたわけです。
義経は平泉で郷御前と暮らしますが、源頼朝の圧力により藤原泰衡が裏切り館を包囲する事になります。
館の外では武蔵坊弁慶らが奮戦しますが討死し、死を悟った源義経は郷御前と4歳の娘と共に自害し世を去りました。
鎌倉時代では主人が落ちぶれれば女性は見捨ててしまう事も多い中で、郷御前の運命を共にする姿は多くの人の共感を呼ぶ事になります。
義経を最後まで見捨てず最後を共にした郷御前は列女だとも言えるでしょう。