南北朝時代に勃発した薩埵山の戦いを解説します。
薩埵山の戦いは別名として薩埵峠の戦い、薩埵山合戦とも呼ばれています。
観応の擾乱の前半戦で勝利した足利直義ですが、幕府内で居場所を無くし最終的に関東に向かいました。
足利尊氏は南朝との正平一統を成立させると、関東に向かって軍を進めています。
薩埵山に足利尊氏が布陣し戦った事で、薩埵山の戦いと呼ばれる様になりました。
観応の擾乱の最終局面の戦いでしたが、宇都宮氏綱の下野勢の活躍もあり、尊氏軍が勝利しています。
尚、太平記には薩埵山の戦いで尊氏軍が三千騎に対し直義軍が五十万騎いたとされていますが、これは明らかに事実とは異なっています。
足利尊氏の東国出陣
足利尊氏は南朝との正平一統を成立させた翌日に、自ら兵を率いて関東を目指しました。
中先代の乱の時は直義を救う為に東海道を進撃した尊氏ですが、今度は直義を討つために出陣したわけです。
足利尊氏に下記の武将らが従った事が分かっています。
この時の足利尊氏の兵は15騎ほどしかいなかったとされています。
尊氏は足利義詮を京都の守備としました。
義詮は自ら出陣する気持ちもあった様ではありますが、尊氏は饗庭妙鶴丸らを派遣し制止しました。
義詮を京都に残したのは南朝の動きに備える為や、尊氏は直義との和平を望んでおり、義詮は直義の打倒を考えており「一緒に出陣されては迷惑」という部分もあったのでしょう。
足利尊氏が関東に出陣した事で、薩埵山の戦いが勃発する事になります。
直義の鎌倉入り
足利直義は鎌倉に入りました。
関東には直義派の最大勢力である上杉憲顕がおり、安全と判断した為でしょう。
鎌倉公方の足利基氏も直義を鎌倉に迎え入れました。
足利基氏は直義の部下たちに感状を発給していますが、この時の基氏はまだ12歳の子供であり、何処までが自己判断だったのかは不明です。
直義派の中賀原掃部助は駿河府中に侵攻していました。
尊氏派の伊達景宗は府中を攻撃し、直義軍は久能山に撤退しています。
東海道では薩埵山の戦いの前哨戦が既に行われていたわけです。
尊氏が薩埵山に籠城
足利尊氏も薩埵山に到着し籠城しています。
薩埵山の足利尊氏の軍に、駿河守護の今川範国や今川貞世(今川了俊)らが合流しました。
既にお分かりかと思いますが、薩埵山の戦いの開戦直前まで来ていたわけです。
太平記では薩埵山の戦いで尊氏軍が三千に対し、直義軍が五十万はいたとされていますが、この数字は絶対にあり得ないでしょう。
足利尊氏の方が兵力の上では多かったとする見解もあります。
ただし、同時期に直義が京都に攻め上るとする噂が流れており、直義の方が兵力は多かったともされています。
薩埵山の戦いの実際の兵力は不明としか言いようがありません。
講和の噂
足利義詮も薩埵山の戦いに参戦する決断をしました。
こうした時期に京都では、尊氏と直義が講和したとする噂が流れました。
義詮は講和の情報を聞き出陣を取りやめています。
さらに、当時は足利義詮が赤松則祐の苔縄城に没落する情報まで流れています。
これらの情報を考えると足利尊氏は直義と講和を望み実現したなら、義詮の幕府での居場所は無くなると世間の人々は予想したのではないでしょうか。
ただし、実際には薩埵山の戦いが開戦となり、尊氏と直義の講和は実現しませんでした。
消極的な直義
蒲原河原で尊氏軍と直義軍の戦闘が始り、尊氏方が数百人を討ち取り大勝しました。
足利直義はこの頃に袖判下文を発給した事が分かっています。
田代顕綱に和泉国大嶋荘内下条村地頭職を約束しています。
足利直義は観応の擾乱において、漸く恩賞宛行を行った事になります。
しかし、既に観応の擾乱の最終局面である薩埵山の戦いが起きており、遅すぎる判断だと言えるでしょう。
足利直義は薩埵山から遠く離れた伊豆国府に陣を置き、動く事はありませんでした。
打出浜の戦いの前にも、足利直義は石清水八幡宮から動きませんでしたが、今回も遠方から戦いの様子を伺う事になります。
観応の擾乱において足利直義の消極的な姿勢は変わらなかったわけです。
さらに言えば、観応の擾乱の前半戦において直義は高師直と高師泰の打倒を叫び、尊氏に関しては何も言いませんでした。
今回の戦いでは敵の総帥であるはずの「尊氏の打倒」も叫ばず、名指しで敵扱いする事は無かったわけです。
直義が薩埵山の戦いで、如何に尊氏と戦いたくなかったのかが分かる話でもあります。
それでも、直義派の軍は尊氏がいる薩埵山を包囲しました。
下野・武蔵勢の奮戦
足利義詮は薩埵山の戦いにおいて、京都でじっとしていたわけではありません。
義詮は薬師寺公義を下野国の宇都宮に派遣していました。
薬師寺公義は観応の擾乱の前半戦で直義派に寝返るも、この時には尊氏派に復帰していました。
足利尊氏の方でも岡本良円を下野に派遣しています。
下野には宇都宮氏綱がおり、自派閥として戦わせる為でしょう。
ここで高一族の水戸七郎なる人物が一旦は総大将となりますが「狂気に取りつかれ自害してしまった」と言います。
しかし、下野勢は奮戦し上杉氏配下の桃井播磨守や長尾左衛門を撃破し、武蔵府中を超えるなど各地で奮戦しました。
下野勢は相模国足柄山で直義軍を破り、甲斐では小笠原政長の軍勢が直義派の武田上野介の軍に勝利しています。
下野・武蔵勢の奮戦により、薩埵山を包囲していた直義軍は敗れ去る事になります。
尊氏派の仁木義長は直義がいる伊豆国府に迫ると、直義は戦わずに伊豆の北条に撤退しました。
上杉憲顕も逃走し、信濃に没落しています。
足利直義の降伏
正平7年の(1352年)の正月になると、足利尊氏は伊豆国府で宇都宮氏綱や薬師寺公義の軍勢と合流しました。
信濃の小笠原政長の軍勢も尊氏の本隊に合流しています。
足利直義は伊豆の走湯山に向かいますが、足利尊氏の降伏勧告を受け入れ降伏しました。
足利尊氏は直義と共に鎌倉に入りました。
これにより薩埵山の戦いは足利尊氏の勝利に終わりました。
足利直義は安全と考えた関東に逃れたわけですが、関東に武士により薩埵山の戦いで敗北したと言えるでしょう。
足利直義は間もなく病死する事になります。