春秋戦国時代

石碏は我が子よりも道義を優先させた

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宮下悠史

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名前石碏(せきさく)
生没年不明
所属
一族子:石厚
コメント我が子の命よりも道義を優先させた。

石碏は衛の上卿となり、衛の荘公(姫揚)に仕えた人物です。

石氏は西周王朝の時代の衛の靖伯から分かれば家系であり、その子孫が石碏となります。

石碏は衛の州吁を危険視しており、衛の荘公を諫めますが、聞き入れる事はなく、子の石厚が州吁に接近する事態となりました。

こうした中で、州吁が主君の衛の桓公を殺害しており、君主となりますが、州吁の政権が行き詰まると、石碏は石厚に嘘の情報を与え、陳と結託し州吁もろとも始末しています。

石碏にとって州吁は反逆者であり、道義を優先させた結果として、石厚と共に処分してしまったのでしょう。

春秋左氏伝の君子も石碏の行動を褒め称え、歴史作家の宮城谷昌光先生は春秋名臣列伝の最初の人物として、石碏を描きました。

春秋左氏伝や史記では記述が少ないですが、石碏は筋を通したと言えるでしょう。

衛の荘公を諫める

衛の荘公には嫡子の姫完(衛の桓公)がいましたが、愛妾が生んだ州吁を可愛がっていました。

衛の荘公は州吁が軍事が得意だと判断し、将軍に任命したりもしています。

正室の荘姜は州吁をよくは思っておらず、上卿の石碏も危機感を募らせる事になります。

春秋左氏伝では石碏は、衛の荘公を次の様に諫めました。

※春秋左氏伝より

子を愛するなら正道を教えるべきであり、邪道に陥らせてはなりません。

驕・奢・淫・佚は邪道の根本となりますが、度を超えた寵愛からはじまるのです。

州吁を太子に立てるならよいですが、そうでなければ禍を受けます。

寵を受けても驕らず、驕っても低い地位に入れる人、低い地位にいても恨みに思わず、我慢できる人は少ないのです。

卑賎の者が貴人を妨げ、小物が長者を凌ぎ、疎遠な者が近臣の者と肩を並べ、弱小が強大な者に歯向かい、淫道が正道を踏み越える。これが六逆となります。

君主は正しくあり、臣下は仕え、父は慈しみ、子は孝を行い、兄は愛しみ、弟は敬う。これこそが六順です。

順を捨て逆に従えば、禍を蒙る事になります。

人君は禍を呼ぶ様な行いは避けるべきであり、禍を招きよせるべきではありません」

石碏は衛の荘公に「州吁への寵愛が度を越えている。これでは州吁が驕慢になり、道を踏み外す」と言いたかったのでしょう。

石碏は州吁を衛を乱す者だと考えていました。

しかし、主君である衛の荘公は石碏の言葉に従わず、州吁を今まで通りに寵愛しました。

石碏と石厚

石碏には子の石厚がいましたが、よりによって州吁に接近したわけです。

石厚にしてみれば、州吁は厚遇されており、魅力的にみえたのでしょう。

石碏は石厚に州吁との交際を禁止しましたが、石厚はやめませんでした。

こうした状況の中で、衛の桓公が即位しますが、このタイミングで石碏は引退しています。

石碏としては、州吁が原因で内乱が起こると考え、政治から距離を置いたのでしょう。

尚、州吁の方は鄭の荘公に敗れた弟の共叔段と繋がる事になります。

我が子を嵌める

紀元前719年に衛の桓公が州吁により殺害されました。

州吁は衛の君主となりますが、国を上手くまとめる事が出来なかったわけです。

ここで石厚が引退した父の石碏に、どうすれば州吁の地位が安定するのかを問いました。

石碏は周王に朝見すればよいと応える事になります。

この時の周王は桓王であり、石碏は周の桓王に朝見すればよいと述べた事になるでしょう。

石厚が「周王に朝見するにはどうすればよいのか」と訪ねると、石碏は「陳の桓公が周王に気に入られているから、衛と陳の友好関係を利用し、陳に頼めば成功するだろう」と応えました。

石碏と州吁は陳に向かいますが、石碏は陳に次の様に伝えました。

※春秋左氏伝より

石碏「衛の国は狭く私は老いぼれており、何も出来ません。

州吁と石厚は主君でる衛の桓公を誅した不届き者です。

速やかに処分してください。

陳では州吁と石厚を捕らえ殺害しました。

石碏の子の石厚に関しては、石碏がわざわざ宰の獳羊肩を派遣し、陳で殺させたとあります。

石碏は息子よりも道義を優先させ、州吁共々殺害してしまったと言えるでしょう。

州吁が亡くなった事で、衛の宣公が立つ事になりました。

この後に、石碏の記述は無くなり、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

石碏の評価

春秋左氏伝には、石碏に対する君子の評として、次の様に記載されています。

※春秋左氏伝より

石碏は篤実な臣下である。

州吁を排除するだけではなく、石厚をも連帯させた。

「大義・親を滅す」とは、この事であろうか。

石碏の行動を春秋左氏伝の君子も高く評価したわけです。

「我が子よりも道義」これこそが石碏の思想でもあったのでしょう。

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