春秋戦国時代

司馬説は刑を執行した人物

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宮下悠史

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名前司馬説
生没年不明
時代春秋時代
主君晋の恵公

司馬説は晋の恵公に仕えた人物です。

司馬は姓ではなく官職名で名前が「説」だと考えられています。

司馬説は三軍を集めて慶鄭を処刑した話もあり「司馬」というだけであり、それなりの役職を貰っていたのでしょう。

司馬説が晋軍の将帥の一人だった可能性もある様に思います。

司馬説に関して分かっている事は殆どなく、韓原の戦いで破れる原因を作った慶鄭の最後の話でのみ登場します。

それ以外で、司馬説に関して分かっている事はありません。

史記には司馬穰苴など司馬姓の人物が登場しますが、特に関係はない様に感じました。

慶鄭の罪状を読み上げる

慶鄭は韓原の戦いでの敗北の一員を作り出し、戦場から離脱した事で晋の恵公の怒りを買い処刑を命じられました。

この時に蛾析家僕徒などは慶鄭の処刑に反対しますが、梁由靡の言葉もあり、晋の恵公は慶鄭を処刑する決断をします。

晋の恵公が慶鄭を処刑する様に命じたのが、司馬説です。

司馬説は三軍の兵士を集合させると、慶鄭の罪状に関して次の事を問題視しました。

  • 秩序を乱し軍令に背いた
  • 大将(晋の恵公)が捕虜になっても顔に傷が無かった
  • 嘘の情報を流し周囲の者を誤らせた

司馬説は慶鄭は秩序を乱し軍令には背き、勝手に戦場を去った事を問題視しました。

さらに、慶鄭は韓原の戦いで、秦の穆公を捕える寸前まで行っていた梁由靡に虚言を行い判断を誤らせたと述べます。

最後に司馬説は、総大将である晋の恵公が捕虜になったのに、慶鄭の顔に傷がない事を罪状の最後に挙げています。

主君が捕らえられた時に、顔に傷がないのを問題視するのは、当時の倫理観をしる手掛かりとなるでしょう。

慶鄭の最後の言葉

慶鄭は司馬説の言葉を聞くと、次の様に述べました。

慶鄭「司馬説よ。既に三軍の兵士らはこの場所に集合し、私が処刑されるのを待っているのである。

この私が顔に傷が付く事を恐れると思っているのか。

処刑するなら、さっさとしろ」

慶鄭の言葉を見ると、司馬説が読み上げた罪状の中で、顔に傷が無かったというのが癪に触ったのでしょう。

慶鄭は自分は「顔に傷が付く事など恐れていない」とする発言を行い自らの処刑を促したわけです。

司馬説がどの様な気持ちで慶鄭を見ていたのかは不明ですが、既に慶鄭の処刑は決定事項であり、ここで覆すわけにもいかず司馬説は慶鄭を処刑しました。

慶鄭の最後に関しては、見事な最後だったとも言えるでしょう。

尚、慶鄭は丁丑に斬首されたとあり、今でいうと29日に斬首された事になります。

最初にも言ったのですが、司馬説も記述は、これだけであり、この後に司馬説がどの様になったのかは不明です。

これ以後は、史記、春秋左氏伝、国語などにも記載されておらず、司馬説の足跡は途切れます。

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