
晋の孝侯は春秋時代の晋の君主です。
父親の晋の昭侯が曲沃の桓叔に通じた潘父により、暗殺された事で即位しました。
晋の孝侯の時代から、翼と曲沃の戦いが激化し内乱に陥り、他国に干渉する事が出来なくなりました。
最終的に、晋の孝侯は曲沃の荘伯により、首都の翼で殺害されたとあります。
晋の孝侯の時代は、春秋左氏伝も始まっておらず、国語にも記載がなく、史記の情報が頼りですが、情報はかなり少ないと言えるでしょう。
晋の孝侯の即位
晋の孝侯の父親である晋の昭侯は紀元前739年に、曲沃の桓叔に通じた潘父により命を落としました。
これにより晋の孝侯は突如として、晋に君主になったはずです。
晋の孝侯は潘父を処刑しました。
この時期は周の東遷の末期であり、後は周の平王を洛陽に入れればよかっただけの段階に入っていた事でしょう。
晋の孝侯は年が若かったとも考えられており、周の東遷の完了に対して、実力を発揮できなかった様にも感じています。
さらに言えば、曲沃は豊かな地でもあり、父親である昭侯の仇も簡単には討てなかったのではないでしょうか。
曲沃は晋の首都である翼よりも大きかったとも伝わっています。
晋では内戦が始り、東周王朝への影響力を発揮出来ず、代わりに鄭の荘公が卿士になるなど影響力を発揮しました。
晋の翼と曲沃の戦いが始まる
晋の孝侯は国人らと協力し、曲沃の桓叔の軍を撃退しました。
史記の晋本紀によると、晋の孝侯の8年に曲沃の桓叔が亡くなったとあります。
曲沃の桓叔が亡くなった事で、晋の内乱も収まるかに思えましたが、曲沃の荘伯が後継者となり内乱は続く事になります。
晋の孝侯は紀元前726年に、曲沃を討伐する為の軍を出し、曲沃の穀物を焼き払って帰還しました。
戦果を挙げたと言ってもよいでしょう。
晋の孝侯の最後
史記によると晋の孝侯の15年に、曲沃の荘伯が翼で孝侯を殺害したとあります。
ここで再び晋の国人らが曲沃の荘伯を攻撃し、戦いに敗れた荘伯は曲沃に戻ったと言います。
晋の人々は鄂侯を立てました。
これが史記に記載された晋の孝侯の最後となります。
史記の記述は簡略であり、どの様なシチュエーションで孝侯が亡くなったかの記載がありません。
それでも、晋の孝侯は本拠地である翼で殺害されており、父親の昭侯が殺害された様に内通者が出て、殺害されてしまったのかも知れません。
子の晋の鄂侯の時代に、周の桓王が曲沃の荘伯に協力しており、東周王朝の平王が荘伯に何かしらの協力をした可能性もあるのではないでしょうか。
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