春秋戦国時代

秦の出子は5歳で即位し11歳で世を去った

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宮下悠史

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名前秦の出子
生没年紀元前708年ー紀元前698年
時代春秋戦国時代
一族父:寧公 母:王姫or魯の姫子 兄:武公、徳公
コメント要衝で即位し11歳で亡くなった

秦の出子は秦の寧公(憲公)の子で秦の武公や徳公は異母兄です。

父親の秦の寧公の時代は大庶長の弗忌、威塁(官名)、三父らが実権を握っていました。

秦の寧公が亡くなると、三父らは太子の秦の武公ではなく末子の出子を君としました。

大庶長の三父らにより擁立された出子は5歳で即位しましたが、11歳で三父らにより誅殺されています。

秦の出子は幼くして即位し、若くして亡くなったと言えるでしょう。

出子の誕生

秦本紀によると、兄の秦の武公と徳公は母親が同じで、出子は魯の姫子の子だとあります。

これが真実であれば、出子にとって武公と徳公は異母兄になります。

しかし、別説もあり武公と徳公が魯の姫子の子であり、出子は周王朝の王姫の子だとする説もあります。

出子の出生に関しては、不明な点が多いですが、紀元前708年に誕生した事だけは見解が一致しています。

秦の君主となる

父親の秦の寧公が22歳の若さで亡くなると、本来であれば太子で長男の秦の武公が立つはずでした。

しかし、大庶長の三父らにより、出子が擁立される事になります。

の君主として即位した出子ですが、この時の年齢は僅か5歳でしかありませんでした。

5歳の子供に政治が行われるわけもなく、大庶長の三父らが実権を握る事になります。

出子の最後

史記によると、出子の6年(紀元前698年)に、三父らは人を使って出子を誅殺させたとあります。

ただし、史記を見ると出子は誅殺されたとは書かれていますが、何が原因で殺害されたのかは書かれてはいません。

この時の出子は11歳の子供であり、三父らと対立する様な年齢ではないでしょう。

これらを考慮すると、出子の母親とされる魯の姫子や王姫ら外戚の勢力と、三父の対立があり、外戚勢力の力の根源である出子を殺害してしまったのかも知れません。

他にも、天変地異や何かしらの問題があり、出子が責任を取らされた可能性もあると感じました。

出子が亡くなると、三父らは元の太子であった武公を擁立しています。

しかし、武公は弟の出子の仇を取り、三父らを滅ぼしました。

先代:寧公出子次代:武公

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