名前 | 崇光天皇 |
別名 | 崇光上皇、崇光法皇、益仁、興仁、勝円心(法名)、伏見殿 |
生没年 | 1334年ー1398年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:光厳天皇 母:正親町三条秀子 弟:後光厳天皇 |
子:栄仁親王、興信法親王、瑞室、弘助法親王 | |
コメント | 在位期間は三年程で苦難が多かった。 |
崇光天皇は光厳天皇の子として誕生し、普通に考えれば持明院統の嫡流となります。
しかし、治天の君である光厳上皇は花園天皇の子である直仁親王を皇太子に定めました。
観応の擾乱の一幕で正平一統が破棄されると、南朝の軍が京都を占拠し皇族を賀名生に連れ去ってしまいます。
三上皇と直仁親王が拉致されると、幕府では崇光上皇の弟の後光厳天皇を即位させました。
これにより崇光上皇と後光厳天皇が対立する事になります。
崇光上皇は光厳上皇から琵琶の秘曲を倣い、南朝の後村上天皇と腕前を競った話も残っています。
後に崇光上皇ら拉致された皇族は京都に戻りますが、皇位は後光厳天皇から嫡子の後円融天皇に継承されています。
足利義満の時代には崇光院は酒を注がれ飲まされたり、相撲を取らせるなど権威は失墜しました。
崇光天皇は様々な苦難がありましたが、忍耐強く物事を対処したと言えるでしょう。
尚、崇光上皇は伏見殿におり、伏見宮家の始祖として数えられる事もあります。
崇光天皇の動画も作成してあり、この記事の最下部から視聴できる様になっています。
崇光天皇の誕生
崇光天皇が生まれた時代は1334年であり、後醍醐天皇による建武の新政が始まった時期でもあります。
六波羅探題は足利尊氏の攻撃により崩壊し、近江の番場では光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らを守っていた北条仲時が自害しました。
光厳天皇及び上皇らは都に連れ戻されますが、後醍醐天皇による建武の新政が始り、両統迭立や文保の和談などは崩壊するのか?と思う様な時代だったわけです。
後醍醐天皇も我が子の恒良親王を後継者に指名し、持明院統の苦難の時代に誕生したのが崇光天皇(興仁親王)となります。
尚、崇光天皇は最初は益仁親王と名乗っていましたが、ここでは曖昧さを回避する為に、興仁親王の名前で話を進めます。
後に足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、持明院統の光明天皇を即位させ、光厳天皇を治天の君としました。
この時期に興仁親王は親王宣下を受け、さらに光明天皇の皇太子となります。
興仁親王は皇太子になった時点で、北朝が続きさえすれば、天皇の座は約束されたも同然だったわけです。
崇光天皇の践祚
1348年に光明天皇が退位し、興仁親王に践祚があり崇光天皇として即位しました。
崇光天皇の皇太子には、花園天皇の子である直仁親王となります。
光厳上皇は崇光天皇の子が皇位を継承する事を望まず、直仁親王の子孫が皇位を継承するべきと考えたわけです。
光厳上皇と直仁親王に関しては、既に直仁親王の記事で書いたので、そちらをお読みください。
尚、崇光天皇は最初は諱を益仁としていましたが、践祚後に興仁と名乗った事が分かっています。
益仁から興仁に改名した事に関しては、次の様に考えらています。
※室町・戦国天皇列伝(戎光祥出版)より
「益仁が」大祓の祝詞にある「天益人」(数が増して栄える人民・百姓)に通じることから、天皇の諱にふさわしくないとみられたようである(親長卿記)長享三年九月三日条)。
即位灌頂
崇光天皇は即位しましたが、翌月には花園法皇が崩御しました。
これにより崇光天皇の即位礼が延期される事になります。
室町幕府内では足利直義と高師直が対立し、観応の擾乱に突入しました。
観応の擾乱は大規模な内戦に発展し、日本中で争い室町幕府は二十七万疋の支出を渋る事になります。
これにより延期に次ぐ延期となった話があります。
それでも何とか挙行され関白の二条良基が、崇光天皇に即位灌頂である印明が授けられました。
即位灌頂は密教儀式であり、内容は不明とされていますが、印明を摂関家から伝授されるのが慣例だったとされています。
尚、即位灌頂が行われた頃に、高師直の御所巻により足利直義が失脚しています。
持明院殿に移住
足利尊氏と高師直は九州の足利直冬討伐に出かけ、隙を突いた足利直義が挙兵する事態となりました。
これにより京都に危険が迫って来たとも言えるでしょう。
京都が戦乱になる可能性が出て来た事で、崇光天皇は土御門東洞院の内裏から持明院殿に移住する事になります。
崇光天皇の持明院殿への移住は皇族たちを、一カ所に置いた方が守りやすいと考えた幕府の要請だったとされています。
足利直義は南朝に降伏しますが、多くの武士たちの支持を得て高師直及び高師泰らを殺害しました。
足利尊氏と直義の和睦が成立し、観応の擾乱は収束するかに見えたわけです。
心中所願
この頃に崇光天皇の願文が残されており「心中所願成就の暁には最勝王経一部を石清水八幡に奉納する」とあります。
崇光天皇のいう「心中所願」が何なのかは不明ですが「疫病の退散」「天下静謐」だったのではないかともされています。
他にも、この年に嫡子となる栄仁親王が誕生しており「栄仁親王に関する事」ともされています。
それでも、この頃の崇光天皇が何かしらの事を強く思っていた事は間違いないのでしょう。
大嘗会が行われず
崇光天皇は即位しましたが、大嘗会が行われていませんでした。
大嘗会は天皇が即位し最初に行われる新嘗祭の事です。
足利直義は高師直に勝つために南朝に降伏しており、南朝の北畠親房と激論を繰り広げる事になりました。
しかし、交渉は決裂し足利直義は崇光天皇の大嘗会の申し入れをする事になります。
足利直義としては南朝との交渉決裂により北朝の皇族を立てるしかなく、大嘗会の打診をしたのでしょう。
佐々木道誉と赤松則祐が南朝に鞍替えし、足利尊氏と義詮が討伐の為に京都を開けると、身の危険を感じた足利直義は京都を出奔し北陸に移りました。
これにより崇光天皇の大嘗会も延期される事になり、遂に大嘗会が開催される事はありませんでした。
足利直義は北陸に移りますが、北朝皇族の心配もしていた様であり、尊氏と義詮不在の京都に南朝が攻めて来る事を危惧し、比叡山に皇族の保護を命じる書状を発行しています。
しかし、北朝の皇族が比叡山に入る事はありませんでした。
廃位
足利尊氏と直義は講和が成立するかに見えましたが、結局は決裂しました。
こうした中で足利義詮が主導し、南朝に降伏してしまったわけです。
義詮は南朝への降伏の条件とし、北朝天皇の廃止としており、崇光上皇の廃位が決定しました。
崇光上皇の在位は三年程しかなく、この時の崇光天皇は18歳でした。
これが正平一統と呼ばれる事件です。
北朝は消滅し三種の神器も引き渡され、南朝の後村上天皇により崇光院は太上天皇の尊号宣下を行っています。
足利尊氏は関東遠征を行い足利直義を降伏させますが、南朝の軍が京都に侵攻しました。
これにより光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が捕虜となり、石清水八幡宮に連行され、後に賀名生に移される事になります。
尚、この時に崇光上皇は持明院統に伝わる文書の一部を仁和寺などに移した話があります。
崇光上皇は拉致される時に、持明院統の文書を守ろうとしていたわけです。
金剛寺に移る
崇光上皇らは賀名生で二年程過ごしますが、粗末な生活をしたと伝わっています。
南朝も財政危機が深刻であり、崇光上皇らは粗末で苦しい生活を送る事になってしまったのでしょう。
室町幕府では北朝の再建がなされ、佐々木道誉や広義門院により崇光天皇の弟の後光厳天皇が即位しました。
後光厳天皇の即位は、後に崇光流と後光厳流の対立へと発展していく事になります。
文和三年(1354年)になると、崇光上皇らは河内の金剛寺に移る事になり、翌年には光明法皇が京都への帰還を許されました。
尚、金剛寺には南朝の後村上天皇も移り住む事になります。
崇光上皇と琵琶
崇光上皇と光厳上皇の琵琶の秘曲
崇光上皇の「秘曲伝受月々例」によると、金剛寺に移った時から光厳上皇を師として琵琶を学んだとあります。
既に崇光上皇は琵琶の修練は行っており、1347年の御遊始で琵琶役を務めており、かなりの腕前があったはずですが、琵琶を伝授される事になったわけです。
楊貴妃が作曲し玄宗が鼓を打ったとされる琵琶の秘曲である楊真操を指導され、続いて石上流泉、上原石上流泉を学び、最後に啄木を学んだと言います。
琵琶の中では啄木が最秘曲だとされています。
持明院統では嫡流が琵琶をマスターするのが慣例となっており、崇光上皇は帝王学の一つを父である光厳上皇から学んだ事になるでしょう。
他にも万秋楽、清調、盤渉調、皇帝、団乱旋も倣いました。
因みに、崇光上皇に琵琶の伝授が終わると光厳上皇は「やるべき事は全てやった」と言わんばかりに、出家しています。
光厳上皇にとっても、崇光上皇への琵琶の伝授は最後の仕事的な役割があったのでしょう。
光厳上皇から見れば、後光厳天皇は緊急時の中継ぎの天皇でしかなく、崇光院こそが正嫡が考えていたとみる事が出来ます。
崇光上皇が琵琶の修練を続ける中で、観応の擾乱は激しさを増し、高師直や足利直義が最期を迎え足利尊氏が勝ち残ったわけです。
尚、直仁親王には琵琶を光厳上皇が伝授した話がなく、この頃の光厳上皇は自分の後継者は崇光上皇の子孫が付くべきと考えていた可能性があり、後光厳天皇は琵琶の習得を投げだした話があります。
崇光上皇と後村上天皇の琵琶対決
持明院統の楽器とも言えるのが琵琶でしたが、大覚寺統は笛を重視していました。
しかし、後醍醐天皇は自らが大覚寺統と持明院統を統合するものだと考えたのか、琵琶も積極的に習うようにしました。
後醍醐天皇の後継者の後村上天皇も琵琶に積極的に取り組んでいたわけです。
後村上天皇は播磨局の琵琶の秘説、秘譜である良空(源兼親)から学びました。
持明院統が学ぶのは西流であり、後村上天皇は播磨流を学んだと言います。
後村上天皇も金剛寺に住むようになっており、崇光上皇が観蔵院におり、後村上天皇は摩仁院にいて近い場所にいた事も分かっています。
崇光上皇と後村上天皇は互いに琵琶の腕前を競ったと考えられています。
室町殿
延文二年(1357年)に足利尊氏の要請もあり、崇光上皇、光厳上皇、直仁親王は京都に帰還しました。
光明法皇は、崇光上皇らよりも数年早く京都に戻っています。
崇光上皇ら三上皇が京都に戻る事が出来たのは、南朝としてお金ばかりが掛かり政治的な駆け引きに仕えないと判断した為なのでしょう。
足利尊氏は翌年に亡くなりました。
この時の崇光上皇は23歳になっており、広義門院のいる伏見殿に入っています。
貞治六年(1366年)になると、土御門内裏に近い菊亭に入りました。
崇光上皇が自ら書いた「室町亭御移徒記」によると、足利義詮が1367年に亡くなり、その翌年に義詮の室町殿を崇光上皇が譲り受けたとあります。
この室町殿が仙洞御所であり、後には花の御所とも呼ばれました。
崇光上皇と後光厳天皇の対立
貞治三年(1363年)には光厳法皇が崩御しており、光明法皇も出家しており元々政治に口を出す様な人でもなく、政務に関わろうとはしませんでした。
こうした事から、崇光上皇が実質的な治天の君だったのではないかとされています。
後述しますが、崇光上皇は光厳上皇から長講堂領など多くの所領を得ており、経済基盤を確保しており、強い発言権を持ちました。
室町殿に移る直前に、崇光上皇の嫡子である栄仁親王が親王宣下を受けています。
崇光上皇は後光厳天皇の後継者は栄仁親王が相応しいと考えていたわけです。
後光厳天皇は正平一統の破棄で三種の神器も上皇もいない様な状況で無理やり即位した天皇であり、正統性に疑問もあった事でしょう。
崇光上皇の言い分としては、嫡流である自分の子孫こそが天皇になるべきだと考え、室町幕府にも働き掛けています。
しかし、後光厳天皇は嫡子の緒仁親王が即位するべきだと考え、ここにおいて崇光流と後光厳流の対立が勃発しました。
室町幕府では足利義満がまだ子供であった事から、細川頼之が判断する事になりますが「聖断たるべし」としています。
細川頼之は「朝廷内で話し合って決めてください」というスタンスを取ったわけです。
しかし、室町幕府は無理やり後光厳天皇を擁立した過去があり「今さら貴方の子孫が皇位を継ぐ事は出来ません」というわけにも行かず、どちらかと言えば後光厳天皇が有利になる様にしたわけです。
崇光流と後光厳流の対決を制したのは、後光厳天皇であり、緒仁親王に践祚があり、後円融天皇となりました。
崇光上皇と後光厳天皇は仲が良かったともされていますが、この一件で絶交状態になってしまったと言います。
この頃から崇光上皇は室町殿にいる事が少なくなり、伏見殿で暮らすようになりました。
室町殿の焼失
永和三年(1377年)になると、室町殿が火災により焼失しました。
翌年から新たなる大規模邸宅が造営され、ここに移り住んだのが足利義満となります。
室町殿は元は足利義詮の所有地であり、亡くなった後に崇光上皇が住むようになったという経緯があります。
室町殿を造営するにあたり、菊亭の敷地も接収し、広大な規模の建物が出来たわけです。
これ以後は室町殿という言葉自体が足利義満を指す言葉となりました。
尚、足利義満は後光厳流を正統とみなしており、崇光上皇の住居の後に自らが住むのは、崇光上皇の権威を貶めようとした意図があったともされています。
この後に、足利義満の行動を見ると、あからさまに崇光上皇の権威を落そうとしている様に見える部分が多々あるわけです。
因みに、崇光院宸記によると、崇光上皇は後円融天皇の次の天皇に栄仁親王がなればいいと考えており、崇光流の皇位継承を諦めてはいませんでした。
崇光上皇の力の根源
経済基盤
崇光上皇が自らの子孫が「皇位継承するべき」と考えたのは、後光厳天皇の即位がまともだとはとても思えなかったからでしょう。
さらに、持明院統の主要な所領などは大半が光厳上皇から受け継いだ崇光上皇と直仁親王が持っていました。
崇光上皇は持明院統のシンボルとも言える所領である長講堂領や法金剛院領、播磨国衙領などを所有しており、直仁親王は室町院領を所有していました。
これに対し後光厳天皇は広義門院から譲り受けられた所領のみを持っており、財産基盤で崇光上皇が圧倒していたわけです。
後光厳天皇は幕府の援助が無ければ朝儀も行えないほどだったと伝わっています。
崇光上皇は所有している財力を武器に、栄仁親王が皇位に就けるように働きかけていたと考えられています。
持明院統の蔵書
崇光上皇は持明院統に伝わる書物や文書なども保持していました。
崇光上皇は南朝に拉致されていますが、その時に蔵書の一部を仁和寺や洞院家に預けており、それらの文書は文和四年(1355年)に土御門東洞院内の千洞文庫に戻されています。
この際に目録が作成されており、崇光上皇の孫の貞成親王の時代の蔵書の目録と一致しているわけです。
崇光上皇は持明院統の蔵書を光厳院から受け継いでおり、伏見宮家に相伝されたのは明らかでしょう。
崇光上皇も「室町亭御移徒記」「代々琵琶秘曲伝授事」「不知記録」などの日記を残しています。
日記の中には二条良基が猿楽者の世阿弥に藤原の名を与えた事が書かれており、世阿弥を知る上での貴重な資料となっています。
琵琶の腕前
持明院統の嫡流としての証は琵琶の腕前だとも言えます。
先に述べた様に後光厳天皇は直ぐに琵琶を放り出しましたが、崇光上皇は琵琶を極めていました。
崇光上皇は琵琶の腕前を披露するだけではなく、秘曲を廷臣たちにも伝授する様になります。
正親町忠季の父親の正親町公蔭の妻は赤橋種子であり、足利尊氏の妻である赤橋登子とは姉妹となっており、足利氏との関係も深い人物です。
さらに、栄仁親王や近臣の今出川公直にも啄木を伝授しています。
貞治六年(1367年)には、後村上天皇の琵琶の師でもある良空から播磨局を教わりました。
この時に良空は後村上天皇の裏書を持つ三五要録と播磨局流の書物を何冊か献上しています。
崇光上皇は西流と播磨局流の二つをマスターした事になり、注目を集めたと考える事が出来ます。
後光厳上皇と崇光上皇の協力
光厳院の年忌法要
応安五年(1372年)に光厳院の年忌法要が大光明寺で行われました。
この時に後光厳上皇は牛車で現れ、崇光上皇は伏見殿から輿で大光明寺に到着しました。
後光厳上皇と崇光上皇は久しぶりの対面となります。
過去には後円融天皇の事で対立していましたが、光厳院の年忌法要には、蟠りを超えて集まったわけです。
共に後光厳院の御影像に焼香を捧げました。
それでも、時間が崇光上皇と後光厳上皇の対立を、緩やかに低下させた可能性はあると感じました。
崇光上皇と後光厳上皇の手紙のやり取り
1373年に伊勢豊受大神宮の造営に伴い、長講堂領が賦課されそうになります。
長講堂領を所有しているのは崇光上皇であり、崇光上皇は免除を期待し後光厳上皇と何度も書状のやり取りをした話があります。
崇光上皇は後光厳上皇を通じて、税金の免除を願いました。
しかし、1374年の正月に後光厳上皇は崩御しています。
37歳の若さだったと伝わっています。
永徳二年(1382年)に後円融天皇が退位し、後小松天皇が即位しますが、この時に崇光上皇は殆ど意見を示しませんでした。
既に自分は蚊帳の外と考えていたのか、後光厳上皇とのわだかまりが溶けていたのかは不明ですが、殆ど意見表明をしなかった事だけは間違いありません。
伏見殿で余生を過ごす
崇光上皇は伏見殿で余生を過ごす事になります。
当然ながら崇光上皇は伏見宮家の初代当主にも挙げられています。
明徳三年(1392年)11月20日には落飾し崇光法皇となりました。
尚、1392年は後小松天皇と後亀山天皇による明徳の和約が行われ、南北朝時代が終了した年でもあります。
隠居の身となった崇光上皇は鹿苑院主の仏日常光を戒師としました。
足利義満と崇光上皇
盃一杯で千疋
(画像:ウィキより)
応永三年(1396年)に崇光法皇と足利義満が伏見殿で面会した話があります。
ここで足利義満が崇光法皇に酒を注ぎ、崇光法皇が飲み干した話があります。
一見すると足利義満が遜り、酒を注いでいる様に見えるかも知れません。
しかし、中世の時代は日本酒の様なものがメインであり、基本的に酒杯の慣習では上位者が下位者に酒を注ぐというものでした。
つまり、足利義満は崇光法皇に対し「自分の方が上位」だと認識させた事になるでしょう。
当然ながら、崇光上皇が酒を飲みほしたのは、自分が下位だと受け入れた事にもなります。
ただし、足利義満としても相手に恨まれるのはよくないと考えていたのか、手土産として10万疋を進上しました。
これに対し貴族の中には「酒一杯で千貫とは、割が良い」と述べた者もいます。
他にも、聖護院僧正道意や青蓮院尊道法親王にも三万疋と五万疋を進上しています。
足利義満は剛腕とは言われており、札束で頬を叩くような事やアメとムチを繰り返す事になります。
余談ですが、南北合一後に大覚寺で後亀山上皇と足利義満は面会しており、ここでも足利義満は後亀山天皇に酒を注いだ話があります。
後亀山天皇は酒を飲み干し、足利義満はここでも10万疋を進上しました。
崇光法皇と足利義満の相撲
伏見殿の会の中で足利義満はなんと「相撲を取りましょう」と崇光法皇に持ちかけました。
足利義満の方が20歳以上も若く、普通に考えれば義満の圧勝だった事でしょう。
この無理難題に対し崇光法皇は了承し、ガチの相撲では無かったと思いますが、お戯れで取り組みを行っています。
足利義満の狙いは、崇光上皇の神聖性を取り去る為の行為だったと考えられています。
皇室を辿って行くと天照大神に行き着き神聖なものであり、肌に触れるのも恐れ多い存在でもありました。
しかし、肌と肌がぶつかり合う相撲を行ったとあれば、崇光法皇の神聖な部分も打ち消す事になるわけです。
これにより崇光法皇に神聖な部分が消え去り、後光厳流に適任者がいれば、崇光流が皇位継承できる可能性は無くなってしまいました。
足利義満は後光厳流を支持しており、崇光流の権威を削ぐ事に全力を尽くした事になるでしょう。
崇光院の最後
崇光法皇は応永五年(1398年)正月十三日に崩御しました。
この頃は足利義満が公家社会にも大きく進出しており、踏歌節会の華美な演奏を伴う国栖奏だけはやめ、それ以外は通年通りに執り行うように決めています。
足利義満は崇光法皇を敬っておらず、この様な結果になってしまったのでしょう。遺体は十日間に渡り放置された話があります。
崇光法皇の葬儀が行われなかった理由ですが、高僧らが足利義満の仏事を優先した為です。
崇光法皇は正月十三日に崩御し、二十三日になり漸く葬儀が行われました。
足利義満が伏見宮家を貶めようとした結果として、遺体は放置されたとも考えられています。
足利義満は崇光薨去を理由した釈奠(孔子を祀る年中行事)の延期及び中止は認めない」としました。
さらに、足利義満は栄仁親王から崇光上皇の財産を奪い後小松天皇の元に移し、代わりに栄仁親王は直仁親王の所領を貰う事になります。
足利義満の剛腕により、崇光上皇はかなりの忍耐に強いられたと言えそうです。
崇光天皇の動画
崇光天皇のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は室町・戦国天皇列伝(戎光祥出版)及び北朝の天皇(中央公論新社)を元に作成しました。