名前 | 性円法親王 |
読み方 | しょうえんほっしんのう |
一族 | 父:後宇多天皇 兄:後二条天皇、後醍醐天皇 |
コメント | 大覚寺門跡になった記録がある |
性円法親王は後宇多天皇の子であり、兄に後二条天皇や後醍醐天皇がいる事が分かっています。
性円法親王は大覚寺門跡となり僧侶となり、大きな力を持っていました。
後醍醐天皇が南朝を開くと性円法親王は吉野まで行き後醍醐天皇を支持しています。
性円法親王は後醍醐天皇を補佐し南朝を支えますが、最終的には南朝を離れて室町幕府の勢力に誼を通じていたのではないかとも考えられています。
今回は後醍醐天皇の弟である性円法親王を解説します。
大覚寺門跡
後宇多天皇の子の後二条天皇や後醍醐天皇は皇位継承しましたが、性円法親王は大覚寺門跡となっています。
後醍醐天皇は皇子の護良親王や足利尊氏、新田義貞、楠木正成などと共に倒幕を成し遂げました。
後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、足利尊氏が離脱し後に光厳上皇の院宣を獲得し光明天皇を擁立し北朝を開く事になります。
足利尊氏に一度は幽閉された後醍醐天皇ですが、花山院を脱出し吉野に向かい南朝を開きました。
後醍醐天皇は大覚寺統ではありましたが、兄の後二条天皇の系統である康仁親王が同行せず、後宇多天皇の子で後二条天皇の弟である恒明親王も京都に残りました。
大覚寺統の中でも後醍醐天皇を支持しない者まで多く現れましたが、性円法親王は吉野に向かう事になります。
性円法親王は大覚寺門跡にもなっており、兄の後醍醐天皇を宗教、軍事、経済など様々な面で補佐したと伝わっています。
大覚寺の変貌
性円法親王は大覚寺の住職という立場を捨て去り、後醍醐天皇を支持しますが、新たな大覚寺の住職には安井宮寛尊法親王が就きました。
安井宮寛尊法親王は亀山天皇の子であり、大覚寺統ではありましたが、後醍醐に従う様な者では無かったわけです。
安井宮寛尊法親王は性円法親王と違い室町幕府を支持し、大覚寺は室町幕府と懇意の仲になって行きます。
性円法親王が大覚寺を去った事で、大覚寺は変革の時を迎えたとも言えるでしょう。
性円法親王の最後
性円法親王は南朝を支持し後醍醐天皇よりも長生きした事が分かっています。
しかし、性円法親王は後村上天皇の御世である1347年に亡くなった事が分かっています。
尚、性円法親王の亡くなった場所が南朝の本拠地である吉野ではなく、京都の清水坂だという事で、性円法親王は南朝の中で居場所を失っていたのではないか?とも考えられています。
南朝内で上手くやれず結果的に性円法親王は室町幕府に接近したとも考えられているわけです。