
晋の穆侯が亡くなった時に、太子仇が即位するはずですが、殤叔が強引に晋の君主になってしまいました。
しかし、在位4年目に太子仇に襲われ戦いに敗れて、晋の君主の座を追われています。
ここで殤叔は行方が分からなくなり、亡くなったのかも不明です。
殤叔が晋の君主となる
殤叔は晋の献侯の子で、兄には穆侯がいます。
晋の穆公が亡くなると、殤叔は動き出す事になります。
史記の晋世家では「弟の殤叔が自立した」とあるだけであり、殤叔が自立した理由などは一切書かれていません。
この後に、太子仇が出奔したとあり、殤叔は晋から離れて独立勢力になってしまったと言うよりも、晋の君主の座を奪って即位したという事なのでしょう。
太子仇が何処に出奔したのかは不明です。
殤叔が晋侯になった理由は不明ですが、穆公の後継者は姫仇ですが、師服も指摘している様に「仇」が名前であり、良い名ではありません。
当時は迷信なども蔓延っていたと思いますし、姫仇の名前が不吉だと考えた人も多かったのではないでしょうか。
殤叔は反太子派の人々を集めて、晋の君主の座を奪ってしまったのでしょう。
尚、殤叔の3年に周の宣王が亡くなったと、史記は記録しました。
殤叔が敗れる
殤叔の4年に殤叔は太子仇に攻められる事になります。
史記では「穆公の太子仇は、その徒党を率いて殤叔を襲い自立した」とあります。
殤叔は太子仇の逆襲により、敗北したという事なのでしょう。
この時に、殤叔が亡くなってしまったのか、何処かに出奔したのかは記録がなく分かっていません。
それでも、太子仇が晋の文侯になったからには、晋の国に残る事は出来なかったのでしょう。
殤叔が与えた影響
殤叔が一度は追い出した晋の文侯は、西周王朝崩壊後の周の東遷で大活躍しました。
晋の文侯と同じだけの功績を殤叔が挙げる事が出来るのか?と言えば、微妙だとも感じました。
東周王朝の事を考えれば、晋の文侯が晋の君主になってよかったのでしょう。
ただし、晋の文侯は弟の桓叔を最後まで、何処かの土地に封じる事はありませんでした。
晋の文侯が桓叔を最後まで封じなかったのは、殤叔によって国を追われており「一族であっても信用は出来ない」「一族は晋の君主になれる可能性があるから特に信頼出来ない」と考えたという事はないでしょうか。
桓叔の兄に冷遇されていると考え、晋への忠誠心が失われていった様にも感じました。
晋は昭侯が亡くなった時から、晋は本家と分家が争いますが、殤叔の例を考えて、お互いを怪しみ協力出来なかったのかも知れません。