名前 | 正中の変 |
年表 | 1324年 |
首謀者 | 後醍醐天皇? |
コメント | 後醍醐天皇は被害者だった可能性がある |
トップ画像 | Wikipedia |
正中の変は1324年におきた後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指した計画です。
通説では後醍醐天皇は鎌倉幕府転覆の呪詛を行ったり、日野資朝や日野俊基らと共に無礼講を行い密謀を行ったとされています。
太平記の正中の変は土岐頼員が妻に喋った事で、六波羅探題にバレて土岐頼貞と多治見国長が攻撃を受けて戦死した事になっています。
さらに、斎藤利行が怪死するなどもあり、正中の変では後醍醐天皇は無罪となり、日野資朝を流罪とし騒ぎは収まったとされています。
しかし、近年の研究では正中の変は後醍醐天皇は無関係であり、首謀者ではなく濡れ衣を着せられた被害者だったとも考えられる様になりました。
実際に太平記の内容には問題があり、正中の変が起きた1324年の段階では、後醍醐天皇は倒幕を企ててはいなかったと考えられるわけです。
それどころか、最近では正中の変はなかったとも考えられる様になってきました。
今回は新説も交えて正中の変を分かりやすく解説します。
尚、正中の変を視覚的に分かりやすく理解する為の動画も作成してあります。
正中の変の動画は記事の最下部から視聴する事が出来ます。
後宇多法皇の死
文保の和談により天皇が後醍醐天皇、治天の君が後宇多上皇、皇太子が邦良親王、次期皇太子が持明院統の量仁親王と決まりました。
1318年に後醍醐天皇は即位し、1321年になると後宇多法皇が院政を停止し、後醍醐新政が始まる事になります。
この辺りから後醍醐天皇は倒幕の野望を持ち正中の変の前段階となります。
後醍醐天皇は後宇多法皇が病に倒れたあたりから、鎌倉幕府を倒す為に動いたとされています。
ただし、鎌倉幕府の首脳部は後醍醐天皇を信頼し期待していたのではないかとも考えられています。
尚、この頃に東北では安藤氏の乱が勃発しており、長崎高資が争う双方から賄賂を受け取り、収集が付かなくなる状態となりました。
この時代は持明院統と大覚寺統が交互に天皇を出す両統迭立の時代でしたが、後醍醐天皇は納得しておらず、天皇新政を続けるのと、自分の子孫が皇位継承すべきだと考えていたわけです。
文保の和談で後醍醐天皇は中継ぎの天皇であり、皇太子は邦良親王、次期皇太子は持明院統の量仁親王と決まっていましたが、後醍醐は不満を感じていました。
既に後醍醐の兄である後二条天皇は崩御しており、後宇多法皇だけが目の上の瘤だったとも言えるでしょう。
後宇多法皇は1324年に崩御し、後醍醐天皇は甥で皇太子の邦良親王と不仲であり、自らの子が皇位継承すべきだと考えていたとされています。
後宇多法皇が亡くなった三カ月後に正中の変が勃発する事になります。
後醍醐の呪い
太平記によると後醍醐天皇は中宮の西園寺禧子の御産祈祷と称して、幕府打倒の呪詛を行ったとされています。
後醍醐天皇の呪詛に関していえば、真言宗の文観に呪いを掛けさせたとも言います。
一つの説として後醍醐と文観の呪いというのは、男女が和合し百回交わり出て来た愛液を髑髏に百回塗りたくれば呪いが完成すると言ったものだったともされています。
ただし、近年の研究では後醍醐天皇が西園寺禧子の御産祈祷を行った事は事実ですが、正中の変が終わってからであり、現在では後醍醐天皇が正中の変で幕府への呪いを掛けたというのは、事実だとは考えられていません。
無礼講
正中の変で後醍醐天皇の腹心として活動したのが、日野資朝と日野俊基だとされています。
日野資朝や日野俊基は各地の寺社や諸勢力に働きかけを行い、美濃源氏の足助重成や近江源氏の錦織判官代などの武士が呼びかけに応じたとあります。
ただし、後醍醐天皇は少数の武士にしか支持されなかったとも言います。
後醍醐天皇は無礼講と呼ばれる酒宴を行い、様々な身分の人が酒を飲み17,8歳くらいの女性も交わってのパーティーだったとされています。
太平記は、その裏では倒幕の密謀が行われていたと記録しました。
当時の花園天皇の日記である花園天皇宸記にも無礼講の事が書かれており、実際に無礼講があったと考えられています。
ただし、花園天皇の日記に後醍醐天皇や日野資朝や日野俊基が、謀議をこなしていたとは記録されていません。
さらに言えば、密謀を行っているのに、無礼講を行ってしまったら、カモフラージュになっておらず悪目立ち過ぎるとする指摘もあります。
正中の変の宴会を利用して謀議をこなすのは、前漢の時代に呂氏の打倒を目指した陳平と周勃を思い起こさせる部分があります。
尚、無礼講に関しては酒宴ではなく才人が集まった茶会や宋学の勉強会だったとする話もあります。
土岐頼員の密告
太平記によると後醍醐天皇の挙兵は北野天満宮で行われる祭礼の日と決まりました。
北野天満宮の祭礼の日であれば、六波羅探題が手薄になると見込んだわけです。
後醍醐天皇を支持する者の中で土岐頼員がいました。
土岐頼員の妻は斎藤利行の娘であり、斎藤利行は六波羅探題の役人でもあります。
土岐頼員は後醍醐天皇が挙兵し失敗すれば自分が死んでしまう事を考え、愛妻に「自分が死んでしまっても、貞女の心を失わず冥福を祈って欲しい。極楽浄土で・・・」と語り出しました。
妻は土岐頼員の態度を不審に思い問いただすと「鎌倉殿討伐」を実行する事を告げました。
斎藤利行は口止めますが、妻は後醍醐天皇が成功すれば父親が亡くなり、後醍醐天皇が失敗すれば夫の土岐頼員が亡くなる事を悟ります。
妻は何とかしようと考え、父親の斎藤利行に事に成り行きを説明しました。
妻は土岐頼員の命を助け、さらに父親も死ななくて済むように、取り計らったわけです。
斎藤利行は六波羅探題に報告に行き、直ぐに鎌倉にも伝令が伝わりました。
正中の変では現在では様々な通説が否定されていますが、土岐頼員の密告は実際にあったと考えられています。
土岐頼貞と多治見国長の死
太平記によると、後醍醐天皇謀反の話が鎌倉幕府に報告されると、六波羅探題は共謀者の多治見国長及び土岐頼貞を急襲しました。
土岐頼貞は寝ており不意を衝かれる格好となります。
三条堀河で戦いとなりますが、敵は多く歯が立たないと考え自らの邸宅に戻り自害しました。
山本時綱は土岐頼貞の首を取りました。
多治見国長は前日に多いに酒を飲み泥酔し、邸宅に幕府の軍勢が近づくと小笠原孫六が外を見ると六波羅探題の軍が攻めて来た事を悟ります。
小笠原孫六は奮戦するも自害しました。
多治見国長は不意を衝かれながらも奮戦しますが、屋敷の裏に敵が回り込まれると最後を悟り味方同士で刺し違えています。
斎藤利行が六波羅探題に密告した事で、正中の変は失敗に終わりました。
尚、土岐頼貞は史実では鎌倉幕府が滅亡し南北朝時代が始まっても生きていた事が分かっており、正中の変で土岐頼貞が亡くなったのは事実と異なります。
斎藤利行の変死
太平記によると日野資朝や日野俊基は後醍醐天皇の関与を否定し、鎌倉に下向する事になります。
ここで後醍醐天皇も幕府転覆が失敗に終わったと考え、鎌倉幕府に詫びを入れる事にしました。
二階堂貞藤は天皇が臣下に謝罪するのは異例の事であり拒否すべきと得宗の北条高時に進言しました。
しかし、北条高時は聞かず斎藤利行に読み上げる様に命じています。
太平記によると君臣の道に背いた天罰なのか、誓紙を読み上げた斎藤利行が鼻血を出し変死する事態となりました。
この事態を憂慮した鎌倉幕府の首脳陣は日野俊基を無罪とし、日野資朝を佐渡への配流にしたとあります。
後醍醐天皇の謝罪文
史実の後醍醐天皇は弁明の為に側近の万里小路宣房を鎌倉に派遣しました。
この時の後醍醐天皇の謝罪文は、次の様なものだったと伝わっています。
※太平記より
関東は戎夷なり。天下の管領然るべからず。卒土の民は皆皇恩を受ける。
聖王の謀叛と称すべからず。但し陰謀を企てる輩がいる。法に任せ尋ね沙汰すべきである。
後醍醐天皇の謝罪文の内容は「関東は戎夷とあり、未開の地」だと述べる事に始まり、天皇が謀叛したと言ってはいけないとも告げています。
ただし、陰謀を働いた者がいるから、法により裁くようにするべきだと述べています。
後醍醐天皇の謝罪文という事になっていますが、現代人の感覚で言えば全く謝罪していない事になります。
さらに、未開の地だと述べた後に「天下の管領然るべからず」とあり、未開の地で政治を行うのは問題かの様な文言が続き、天皇が政治を行って然るべきだと言わんばかりの内容です。
正中の変の後醍醐天皇の謝罪文を見る限りでは、謝罪文ではなく後醍醐天皇は「陰謀を張り巡らせた犯人を捜せ」とする内容でもあります。
こうした事情から、正中の変は実際には無く、後醍醐天皇の謝罪文は不甲斐ない鎌倉幕府への叱責だったともされているわけです。
後醍醐天皇は被害者だった
近年有力になって来ているのが、正中の変で後醍醐天皇は本当に無関係だったとする説です。
後醍醐天皇の謝罪文を見ても明らかに謝っておらず、後醍醐天皇は本当に無関係だとする説も有力になってきています。
そうなると後醍醐天皇を早く天皇の座から降ろしたい勢力がいた事になりますが、当時の状況で言えば大覚寺統の邦良親王、恒明親王、持明院統が挙げられます。
後醍醐天皇は傍流であり、後醍醐天皇が譲位してくれなければ、邦良親王は天皇になれません。
邦良親王としては、次の皇太子が持明院統の量仁親王と言うのは嫌がったと思いますが、早く天皇になりたい状態でもあったはずです。
後醍醐天皇と邦良親王の不和は花園天皇の日記でも書かれており、事実だったのでしょう。
恒良親王は過去には亀山法皇の鶴の一声で皇太子になるはずでしたが、亀山法皇が崩御すると後宇多上皇により握りつぶされており、天皇への未練が捨てきれず、黒幕だったのではないかとされています。
持明院統は量仁親王を天皇にする為に一致団結しており、後宇多法皇が亡くなった混乱を利用し、後醍醐天皇の悪い噂を流し、量仁親王の皇位継承を早めたかったのではないかと考えられています。
ただし、正中の変で後醍醐天皇に鎌倉幕府から嫌疑が掛かったのに、天皇の座から降ろす事が出来なかった持明院統の詰めの甘さを指摘する声もあります。
近年の研究では正中の変は実際には無かったとする説も有力となっています。
正中の変が本当になかったのであれば、後醍醐天皇は倒幕の陰謀を張り巡らせたのではなく、被害者という事になるでしょう。
日野資朝が流罪になった理由
鎌倉幕府は正中の変の証拠を集めても出て来ず、日野資朝を流罪にしたとされています。
日野資朝を佐渡への流罪とした理由ですが、後醍醐天皇が乱を起こそうとしていなかったとすれば、新たに犯人を見つけなくてはなりません。
大覚寺統、持明院統を調査する必要が出て来るわけであり、朝廷が大混乱するのを危惧したのではないかとも考えられています。
鎌倉幕府は日野資朝に責任を押し付けた事で、正中の変の幕引きとしたかったのでしょう。
後醍醐天皇が長く天皇を続けられた理由
両統迭立の時代は10年ほどで天皇が変わるのが普通でした。
10年もすれば鎌倉幕府の方からも「天皇交代の要請」が来て、新たな天皇が践祚するのが普通だったわけです。
正中の変が起きながらも、鎌倉幕府は後醍醐天皇に対し譲位を勧めた様な話がありません。
邦良親王の陣営では鎌倉に六条有忠を派遣するなど、次期天皇の話を鎌倉幕府と意見交換し、手ごたえがあったとしながらも鎌倉幕府は動かなかったわけです。
後醍醐天皇は両統迭立の時代に10年以上も天皇をやっており、最長記録とも言われています。
後醍醐天皇が鎌倉幕府から譲位を勧められなかったのは、北条高時が正中の変で後醍醐天皇に借りを作ってしまっており、譲位を勧める事が出来なかったともされています。
正中の変の動画
正中の変のゆっくり解説動画いです。
この記事及び動画は「図説 鎌倉幕府」「倉山満が読み解く 太平記の時代―最強の日本人論・逞しい室町の人々」「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか 歴史文化ライブラリー」「後醍醐天皇と建武政権 (読みなおす日本史)」「陰謀の日本中世史」などをベースに作成しました。