春秋戦国時代

鄭の荘公は鄭の全盛期を築く

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宮下悠史

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名前鄭の荘公
姓・諱姫寤生
生没年紀元前757年ー紀元前701年
在位紀元前743年ー紀元前701年
時代春秋戦国時代
一族父:武公 母:武姜 弟:共叔段 配偶者:鄧曼、雍姞
子:昭公、子亹、鄭子、厲公、公子語
コメント春秋五覇に数えられる事もある。

鄭の荘公は春秋時代の人物であり、鄭の全盛期を築いた人物でもあります。

鄭の武公が亡くなると、鄭の君主として即位しました。

母親の武姜や共叔段との戦いはありましたが、勝利し鄭を纏め上げる事になります。

周の卿士として活動が見られるだけではなく、諸侯としても宋や衛などと戦った記録があります。

外交で孤立した時期もありますが、斉や魯と同盟を結び乗り切っています。

鄭の荘公は周の桓王と対立すると、繻葛の戦いが勃発しますが、見事に勝利しました。

鄭の全盛期は鄭の荘公の時代になるのでしょう。

尚、鄭の荘公は辞通では春秋五覇の一人として、名を連ねています。

鄭の荘公が春秋五覇に数えられるのは、春秋左氏伝の始まりと共に活躍が多く、斉の釐公を東周王朝に朝見させた功績がある為でしょう。

鄭の荘公の即位

鄭の荘公は鄭の武公と武姜の子であり、生まれる時に逆児で難産だったとあります。

鄭の荘公は寤生と名付けられました。

後に弟の共叔段が生まれますが、この時は安産だったのか、武姜は共叔段を可愛がる事になります。

武姜は何度も鄭の武公に共叔段を後継者にする様に訴えましたが、鄭の武公は聞く耳を持ちませんでした。

鄭の武公は鄭の荘公の能力を認めていたのか、長男が後継者にならないのは国が乱れると考えたのか、共叔段の擁立を許さなかったわけです。

鄭の荘公が即位すると、武姜は制の地を共叔段に与える様に請いますが、鄭の荘公は断りました。

武姜は京を共叔段に与える様にと言うと、祭仲は反対しますが、鄭の荘公は「母親の言葉だから」と受け入れる事になります。

これが紀元前743年の事です。

鄭の荘公と共叔段の乱

共叔段が与えられた京の地は大邑であり、共叔段は周辺地域を侵略し勢力を拡大させ始めます。

さらに、武姜が共叔段と内通する手引きとなっており、共叔段は新鄭を襲う計画を立てました。

鄭の荘公の方では、共叔段の動きを察知しており、子封に命じて京へ侵攻させると、京の人々は共叔段から離反しています。

共叔段は鄢に籠城しますが、鄭の荘公により追い詰められ、結局は共に逃亡しました。

これが紀元前722年の話です。

鄭の荘公は母親の武姜を城潁に幽閉しますが、潁考叔の言葉もあり、後に和解する事になります。

尚、春秋左氏伝に登場する最初の長文の伝文が、鄭の荘公、共叔段、武姜の話となっています。

鄭の荘公は即位後20年何をしていたのか

鄭の荘公が鄭の君主となったのが、紀元前743年であり、共叔段を破ったのが紀元前722年で20年以上の歳月があった事が分かっています。

史記にも、この間の記録がなく、鄭の荘公は20年も何をしていたの分からない状態です。

予測をするとすれば、鄭の荘公が亡くなる少し前に、周の携王を滅ぼした晋の文侯が亡くなりました。

その後に、晋の昭侯と共に周の平王を洛陽に入れる為の、協力体制にあったと考えられます。

しかし、晋の昭侯は紀元前739年に、曲沃の桓叔や潘父により命を落としました。

この時に鄭の荘公は周の平王を支持する諸侯たちを纏め、翌年である紀元前738年には、周の東遷を成し遂げたのではないでしょうか。

大国であるが本家の翼と分家の曲沃の対立の時代に入り、鄭の荘公は東周王朝の卿士となり名声を高めた様に感じています。

紀元前722年に鄭の荘公は共叔段を破りますが、東周王朝の卿士としての名声も強く勝利する事が出来たとみる事も出来るはずです。

尚、紀元前722年からは春秋左氏伝の記述もあり、鄭の荘公に関しても、分かる事が格段に増えて行きます。

鄭の孤立

鄭と衛の対立

共叔段の乱の時に、共叔段の子の公孫滑が衛に出奔しました。

衛の桓公を頼ったのでしょう。

これにより鄭と衛の関係が悪化しています。

紀元前721年に鄭の荘公は衛への出兵をしていますが、公孫滑を匿ったからでしょう。

鄭と周の関係悪化

周の平王の時代に、虢を卿士にしようとして、鄭の荘公が反発し、太子忽と王子狐の人質交換をした話があります。

周の平王が崩御し、周の桓公が即位すると、東周王朝では再び虢を卿士にしようと考え、鄭の荘公も再び反発しました。

この時に、鄭の蔡仲は温や成周の麦を刈り取り、東周と鄭の関係は悪化する事になります。

鄭の荘公は東周王朝の卿士を務めていながら、王朝に危害を加える行動をとったともいえます。

尚、鄭の荘公は卿士としての活動も行っていましたが、基本的には諸侯としても行動が大きく、洛陽に常駐していたわけではない様です。

鄭宋関係の悪化

紀元前720年に宋の穆公は、後継者を兄の子である殤公に定めました。

これにより穆公の子の公子馮が、鄭に出奔する事になります。

公子馮を鄭の荘公が受け入れた事で、鄭と宋の関係が悪化しました。

鄭の荘公は周だけではなく、鄭や宋との関係も険悪になったと言えるでしょう。

ただし、この年は鄭の荘公は斉と盟約を結んでおり、外交的な孤立を打開しようとしていた時期でもあるのでしょう。

鄭が四カ国連合軍に攻められる

衛の州吁は共叔段と結びついており、鄭への攻撃を画策しました。

この時に、衛は陳や蔡とも関係は良好であり、さらに、宋にも鄭に軍を出す様に要請し了承されています。

紀元前719年に、鄭の荘公は衛、陳、蔡、宋の連合軍に攻められる事になります。

春秋左氏伝によると、連合軍は鄭の東門を包囲し、五日で撤退したとあります。

この時期の鄭の荘公は外交的に孤立しており、苦しい戦いが続きました。

尚、何年の事なのかは不明ですが、鄭の荘公が陳の桓公に和平を望みますが、陳の桓公は宋と衛を警戒しており、鄭の荘公との講和を認めなかった話があります。

東周、鄭、邾が宋を攻撃

紀元前718年に宋と邾が揉めました。

邾の人は「我らが先導するから先年の恨みを晴らして貰いたい」と鄭に持ちかけています。

宋と邾の揉め事に関しては、東周王朝も関わっていた様であり、鄭の荘公は宋への出兵を決断しました。

鄭の軍は東周の軍と合流し、宋を攻撃し外郭にまで侵入しています。

この時に、宋が魯に救援を求めますが、魯の隠公は断りを入れた話があります。

尚、鄭の荘公が宋を攻撃したのは、周の桓王の命令もあったと考えられており、東周王朝の卿士としての活動とも見られています。

周の桓王の冷遇

東周王朝と共に宋を攻撃した事で、ほとぼりが冷めたと思ったのか、鄭の荘公は紀元前718年に東周王朝に朝見を行っています。

この時に、周の桓王はまだ、麦を刈り取られた事を、恨み怒っていたのか、鄭の荘公を冷遇したとあります。

鄭の荘公にしてみれば、極めて不快な出来事だった事でしょう。

この時に、東周の黒肩が周の桓王を諫めた話があります。

鄭の荘公の外交的勝利

春秋左氏伝によると、紀元前717年に鄭の人が来て和平を結んだ話があります。

魯の隠公は宋と敵対したわけであり、宋の敵でもある鄭と講和したと言う事なのでしょう。

斉と魯も和平を結び、既に鄭の荘公は斉とは講和していた事で、斉、魯、鄭の同盟が出来上がったと言えます。

この年に、鄭の荘公は陳に侵入して大きな成果を挙げる事になります。

陳の桓公は過去に講和しなかった事を後悔した事でしょう。

紀元前716年には鄭が宋と講和し、宿で盟約を交わしました。

宋との盟約により、かつては共闘した邾を宋の為に攻撃した話があります。

さらに、鄭の荘公は陳との講和も実現しました。

陳からは公子佗が鄭を訪れて盟約を結んでいます。

さらに、陳の桓公は自分の娘を鄭の太子忽に嫁がせたいと考え、鄭の荘公は許しました。

鄭は数年の間に、外交的な孤立を一気に打開してしまったと言えるでしょう。

尚、対立していた衛とも紀元前715年に斉の釐公の仲介により、鄭・宋・衛の講和が成りました。

温で会合を行い、瓦屋で盟約を結んでいます。

鄭の荘公は斉の人と共に、周王に朝見を行っており、この行動は礼に合していると春秋左氏伝では述べています。

鄭と魯の土地交換

紀元前715年に鄭の荘公は泰山の祀りをやめて、かわりに周公を祀りたいと告げて、泰山を祀る為に賜わった祊と魯の有する許の土地を交換したいと告げました。

史記によると、鄭の荘公は周の桓公の無礼を怒り、鄭と魯は土地の交換を行ったとあります。

鄭の荘公は周王朝から泰山を祀る様に命令されていましたが、理由をつけて拒否したと言えるでしょう。

尚、魯は鄭の隣国である許に何らかの、権益を持っており、土地の交換を持ち掛けられたと考えられています。

ただし、魯の隠公の方でも決断する事が出来ず、態度は保留しました。

宋攻め

宋攻めの準備

紀元前714年に宋の殤公が朝見を行わないのが問題となり、鄭の荘公は王命により咎めました。

鄭の荘公は魯の隠公に周の桓王の命令で、宋を攻めると通達しています。

さらに、斉の釐公と防で宋を攻撃する為の、相談を行いました。

鄭の荘公は宋を攻める準備を着実に行ったという事なのでしょう。

尚、この年に北戎が鄭に侵入しており、公子突の策を採用し、祝聃の活躍もあり大破しました。

斉の釐公とも中丘で会合を行い、盟約を交わし出兵の期日も決めています。

ただし、鄭の荘公は衛や蔡、郕にも出兵を求めましたが、応じなかった話があります。

君子の評価

鄭の荘公は斉の釐公や魯の隠公と共に、宋を攻撃しました。

魯の軍は宋の軍を管で破り、鄭は郜と防を陥落させ、共に魯のものとしています。

鄭の荘公の行いに対し、春秋左氏伝は君子の評を下記の様に記載しています。

※春秋左氏伝・隠十年より

鄭の荘公の処置は正しいと言えるだろう。

朝見をしない宋を王命によって討ち、攻め取った土地を自分のものとせず、王爵を受けた魯への労いとした。

政治の本体を得た行動である。

春秋左氏伝の君子は鄭の荘公の行動を高く評価したと言えるでしょう。

鄭の荘公が戴で宋・蔡・衛を破る

鄭は宋を討ち撤退に入りましたが、蔡・衛らは鄭の隙を突き、戴を攻撃しました。

さらに、宋も鄭攻めに加わる事になります。

鄭の荘公は戴を救い宋・蔡・衛を攻撃しています。

この時に、宋・蔡・衛の連携が悪く、鄭の荘公は連合軍を大破し、宋にまで攻め寄せています。

許の滅亡

紀元前712年に鄭の荘公は許を攻撃しようと考え、魯の隠公と会合を行っています。

鄭の荘公は許の攻撃を決断しますが、鄭軍の潁考叔と子都が争いました。

斉・魯・鄭の連合軍は許に攻撃しますが、戦いの最中にも潁考叔と子都は争い、潁考叔が戦死する事になります。

しかし、鄭の軍は奮戦し城を陥落させました。

許の荘公は衛に逃亡する事になります。

許の領地をどうするかで、斉の釐公と魯の隠公で話し合い、鄭が領有する事になりました。

これにより、一時的ではありますが、許が滅亡する事になります。

春秋左氏伝には許の滅亡後に百里、許叔、公孫獲の話を掲載し、鄭の荘公の判断を批判しました。

紀元前712年のその他の出来事

紀元前712年は周の桓王が鄭から土地を取り上げ、蘇忿生の土地と交換してしまった話があります。

春秋左氏伝によると、君子たちは鄭の荘公が東周王朝から離れて行く事を予見したと言います。

尚、この年に鄭と息の言葉の行き違いがあり、息侯は鄭を攻撃しました。

鄭の荘公は迎撃し、息の軍を大破したとあります。

さらに、鄭の荘公は虢と共に、宋と戦い大破した記録が残っています。

鄭魯の友好関係を固める

過去に鄭の荘公は魯と祊と許の土地を交換したいと申し出た事がありました。

魯の隠公の時代の事ですが、紀元前711年にも申し出ています。

この時は、魯の桓公の時代でしたが、魯の桓公も了承し、手続きを完了させました。

魯の桓公は鄭の荘公と越でも盟を交わしており、友好関係を固めました。

繻葛の戦い

紀元前707年に周の桓王は鄭の荘公から左卿士の位を奪いました。

これにより、鄭の荘公は朝見しなくなります。

周の桓王は蔡、衛、陳らと共に、鄭に攻め込みました。

虢公林父が右軍となり、周公黒肩が左軍となり、鄭との間で繻葛の戦いの戦いが勃発しています。

繻葛の戦いでは祝聃、蔡仲らの活躍により、鄭の荘公は勝利しました。

周の桓王は負傷し撤退しますが、鄭の荘公は追撃をせず、蔡仲を派遣し周の桓王の慰安に務めたと言います。

斉への救援と魯との対立

紀元前706年に斉が北戎に攻め込まれました。

斉の釐公は鄭への援軍要請をする事になります。

鄭の荘公は太子忽を援軍の将として、斉に派遣しました。

鄭の助けもあり、北戎の軍を破る事になります。

この時に、斉の釐公は娘を太子忽に嫁がせようとしますが、太子忽は「つり合いが取れない」として断りました。

これが後に、鄭の荘公死後の混乱を呼んだとする指摘もあります。

さらに、この時に太子忽と魯の間で揉め事もあり、10年以上続いた鄭魯同盟に亀裂が入る事になります。

紀元前702年には鄭、斉、衛と魯が郎で戦う事になります。

鄭の荘公の最後

紀元前701年に、斉・衛・鄭・宋は悪曹で盟約を結んだとあります。

この年に、鄭の荘公は亡くなっており、悪曹の盟には参加しなかったと思われます。

鄭の荘公が亡くなると、蔡仲が太子忽を立てたと言います。

これが鄭の昭公です。

しかし、ここで宋の昭公が蔡仲を呼び寄せ、公子突を立てる様に脅しました。

これにより鄭の昭公は衛に亡命し、公子突が鄭公となりました。

公子突が鄭の厲王です。

先代:武公荘公次代:昭公

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