名前 | 土岐頼遠 |
読み方 | ときよりとお |
生没年 | 生年不明ー1342年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:頼貞 兄弟:頼清、周済房 甥:頼康など |
コメント | 光厳上皇の牛車に弓を射た罪で処刑される |
土岐頼遠は南北朝時代の人物であり、美濃守護にもなっており幕府からの信頼も厚かった人物です。
青野原の戦いでは敗れはしましたが、勇猛さを発揮し名が天下に知れ渡る事になります。
しかし、京都において光厳上皇の牛車を射かける狼藉を行ってしまいました。
土岐頼遠は事の重大さに気付き美濃に逃亡しますが、後に京都に戻り処刑されています。
土岐頼遠はただ一度の過ちにより人生を棒にした人物だとも言えるでしょう。
バサラ大名の一人として土岐頼遠が挙げられる事もありますが、実際には光厳上皇に弓を射た態度と合わせてバサラ大名にされてしまった人物でもあります。
土岐頼遠は非常に知名度が低い人物でしたが、松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」により有名になりました。
尚、土岐頼遠のゆっくり解説動画も作成しており、記事の最後から見る事が出来ます。
美濃守護となる
土岐頼遠の父親である土岐頼貞は鎌倉時代の末期に護良親王や楠木正成を討つために、鎌倉幕府の軍勢として近畿に向かったとされています。
しかし、足利尊氏が寝返り六波羅探題を討つ事になります。
太平記によると戦いに敗れた六波羅探題の者達が近江番場宿で自害しますが、この時に「土岐の一族は最初から謀反の~」とする言葉があり、幕府軍の美濃通過を妨害したと考えられています。
美濃は東西を繋ぐ交通の要衝であり、土岐頼貞は幕府軍の分断に一役買ったのでしょう。
土岐氏と言えば「美濃守護」を思い浮かぶ人も多いかも知れませんが、後醍醐天皇による建武の新政で、美濃守護に誰を指名したのかは分かっていません。
足利尊氏が北条時行の中先代の乱で建武政権を離脱し、後に九州を経て北朝を建てると土岐頼貞は美濃守護に任命されました。
土岐氏は美濃に勢力を持ち雄族も近隣に多くいて、一貫して足利尊氏を支持した事で、美濃国の守護になったと考えられています。
土岐頼貞が1339年に亡くなると、土岐頼遠が後継者となります。
土岐頼遠には兄がいましたが、既に亡くなっていた事で後継者になったわけです。
青野原の戦い
話は戻りますが、1338年に青野原の戦いが勃発しました。
北畠顕家率いる奥州軍が上洛し幕府軍が迎え撃った戦いです。
青野原の戦いの時に土岐頼貞はまだ生きていましたが、亡くなる前年であり年齢や体力に不安を感じたのか土岐頼遠が軍を指揮する事になります。
北畠顕家の戦上手は天下に鳴り響いており、既に鎌倉も陥落させており斯波家長も討ち取り、美濃墨俣にまで進軍しました。
今川了俊の「難太平記」によると意気上がる奥州軍に対し幕府軍は東海道で今川範国、吉良満義、高師兼、土岐頼遠、桃井直常、三浦高継らが合流しています。
太平記では、軍を後退させ奥州軍と足利尊氏の軍が戦いになったら、挟撃すればいいとする主張もありましたが、土岐頼遠が決戦を主張し採用された事になっています。
幕府軍は8万の軍勢を5つに分けて、くじで順番に出撃順を決めましたが、土岐頼遠と桃井直常が後軍を率いる事になり、土岐頼遠は奮戦し、顔を負傷しながらも撤退に成功したとあります。
難太平記でも後軍に土岐頼遠がおり、前軍が敗れた後に奮戦し奥州軍を食い止め、京都からの援軍もやって来た事で、北畠顕家は伊勢方面に向かい南朝の総本山を目指しました。
青野原の戦いと言えば名将北畠顕家の采配ばかりが目立ちますが、幕府軍の中では土岐頼遠のみが勇猛さを発揮した事になっています。
青野原の戦いで土岐頼遠は後方部隊として配置され、前線の部隊が崩れても奮戦した事だけは間違いないのでしょう。
尚、北畠顕家は近畿の戦いで幕府軍の執事である高師直に石津の戦いで敗れ命を落としました。
幕府からの信頼
土岐頼遠は青野原の戦いで敗れはしましたが武名を高めており、一族の惣領の座を掴み父親の跡を継ぎ美濃守護職を継承する事になります。
当時の越前の守護が斯波高経であり、尾張守護が幕府執事の高師直の弟の高師泰でした。
越前、美濃、尾張は隣接地域であり、幕府の方で土岐頼遠の能力や忠誠心の高さを認めており、要地である美濃を任せたとも考えられています。
土岐頼遠は足利一門でもない事から、個人的な高い信頼感から美濃守護を任されたとも言えるでしょう。
この頃の土岐頼遠は幕府から高い信頼感を勝ち得ていました。
上皇への狼藉
幕府から高い評価を得ていた土岐頼遠ですが、一度の過ちで全てを失う事になります。
土岐頼遠は京都におり、仲間との笠懸帰りの後に光厳上皇の行列に出会いました。
これが康永元年(1342年9月6日)の事です。
光厳上皇は足利尊氏が推戴する北朝の治天の君であり、名目ではありますがトップに君臨する人物です。
この時に光厳上皇の行列は土岐頼遠に対し「馬から降りる様に」と呼びかけました。
しかし、土岐頼遠は酒が入っていたのか「この洛中に、この土岐頼遠を馬から降ろす奴がいるとは思えない。そんな事を言うやつは馬鹿としか思えない」と発言しています。
光厳上皇の側近の西園寺公重が「これは院の御幸であるのに、誰がこの様な狼藉をなさるのか」と返しました。
西園寺公重の返答に激怒した土岐頼遠は「なに院と言うか。犬ならば射て置け」と述べ、光厳上皇の牛車を馬上から弓で射て郎党らも続きました。
土岐頼遠の狼藉により牛車の垂れ布が落ち車輪も破壊され、土岐頼遠は立ち去ったわけです。
征夷大将軍である足利尊氏が奉じている光厳上皇の牛車が襲撃されるという大事件が土岐頼遠により引き起こされた事になります。
土岐頼遠が光厳上皇の牛車に弓を射た話は中院通冬の『中院一品記』にも記録されており、史実だと考えられています。
ただし、本当に土岐頼遠が院を犬と呼んだのかまでは定かではありませんが重大事件を引き起こしてしまった事だけは間違いないでしょう。
土岐頼遠の方でも事件の重大さに気付いており、尊氏や直義に挨拶もせずに、急いで美濃に戻りました。
土岐頼遠の最後
(画像:ウィキペディア)
幕府では事の重大さから『土岐頼遠を討伐すべし』とする意見も出ましたが、幕府は土岐頼遠に帰参を命じました。
土岐頼遠は大軍を率いて上洛し、旧交があった夢窓疎石の所を訪ねています。
夢窓疎石は後醍醐天皇や足利尊氏、直義共にに尊崇。帰依された事があり、土岐頼遠は夢窓疎石を頼ったのでしょう。
ただし、この時の土岐頼遠は既に死を覚悟しており、末期の教えを夢窓疎石に受ける為だったのではないかとされています。
しかし、夢窓疎石のいる臨川寺を侍所の軍勢に囲まれ土岐頼遠は捕縛されてしまいました。
土岐頼遠は捕縛されてから二日後に京都の六条河原とも六角壬生とも言われていますが、処刑されています。
土岐頼遠は一度の過ちにより全てを失う結果となりました。
尚、土岐頼遠が上皇に弓を射かける姿を黙って見過ごした二階堂行春は京都から脱出しましたが、出頭命令に従い出頭し弁明した事で配流で済まされています。
二階堂行春は赦免され関東に下向し鎌倉府政所執事となっています。
全責任を被った
土岐頼遠は処刑されてしまいましたが、土岐氏は生き残る事になります。
土岐頼遠の後継者は土岐頼康となり、所領没収などはありませんでした。
土岐氏が生き残った理由に関しては、光厳上皇への狼藉の件は全ての罪を土岐頼遠が被ったからだとも考えられています。
土岐頼遠の子の一人は土岐頼遠が処刑されると幕府から離反し、美濃の街道や山道を封じましたが、幕府からの離脱はしてはいません。
土岐頼遠の子らも連座する事もなく生き延びました。
後に土岐頼遠の弟とされる周済房が乱を起こしていますが、土岐頼遠とは別の問題で周済房の乱が発生したと考えられています。
幕府は土岐頼遠の処刑はしましたが、罪は一族に及ぶ事は無く土岐頼遠一人の死で終わったわけです。
土岐頼遠はバサラ大名なのか
土岐頼遠はバサラ大名の一人として数えられる事が多いです。
室町幕府が制定した建武式目によれば、派手な服装をしたりし代表的な人物は佐々木道誉だと言えるでしょう。
土岐頼遠がバサラ大名なのかと言えば、少し違うとする意見があります。
土岐頼遠は酔狂な人物ともされていますが、バサラ大名の様な逸話は存在しないと伝わっています。
土岐頼遠がバサラ大名になってしまう理由は、光厳上皇の牛車に弓を射かけたインパクトが余りにも強くバサラ大名になってしまうのでしょう。
土岐頼遠の動画
土岐頼遠のゆっくり解説動画となっています。