春秋戦国時代

闘伯比は人を見る目に優れていた

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宮下悠史

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名前闘伯比(とうはくひ)
生没年不明
時代春秋時代
一族父:若敖 兄弟:霄敖、鬬廉 子:闘穀於菟、子良
コメント人を見る目に優れた楚の賢臣

闘伯比はの若敖の子で、霄敖の弟にあたる人物です。

楚の賢相と言われた闘穀於菟の父親でもあります。

闘伯比は楚の武王の時代に活躍が見られ、随攻めでは、随の少師の性格を見抜き、助長させる為の策を出しました。

闘伯比の策が上手くいき、楚は随に大勝する事になります。

紀元前699年には前年に大功を挙げた屈瑕を危ぶみ、増援部隊を送る様に楚の武王に進言しました。

楚の武王は闘伯比の考えが理解出来ませんでしたが、夫人の鄧曼が闘伯比の考えを理解し、楚の武王は屈瑕に援軍を派遣しています。

しかし、楚の援軍が到着する前に、屈瑕は敗れてしまいました。

屈瑕の件は残念な結果になりましたが、闘伯比は人を見る目に優れた賢臣だと言えるでしょう。

闘伯比の楚拡大政策

春秋左氏伝の魯の桓公の6年(紀元前706年)に、は随に侵攻しました。

楚の武王が総大将として出陣しており、薳章に随との講和交渉を任せ、楚軍は瑕に駐屯する事になります。

随では少師が講和担当となります。

これを見た闘伯比は、楚の武王に次の様に進言しました。

※春秋左氏伝より

闘伯比「楚が漢水の東の諸侯を服属出来ないのは、我らのやり方に問題があるからです。

我らは三軍の兵を以て武力で相手を脅しており、相手は恐れ団結して楚に立ち向かって来ます。

こうしたやり方では、敵は分裂せず、共通の敵(楚)に結束力を強め歯向かってくるのです。

漢水の東の諸侯の中で大国は随ですが、随が尊大になれば必ず味方の小国を見棄てます。

小国が随から切り離されれば、楚が有利となります。

随の少師は傲慢な人物であり、楚軍の弱みを見せて、少師をつけ上がらせるのが賢明です」

闘伯比は楚という強国の前に、随を中心とする小国が団結しているから、戦果を挙げる事が出来ないと考えたわけです。

ここで、熊率且比が「随には賢臣の季梁がいるから、闘伯比の策は通用しない」と述べますが、闘伯比は「将来の為の計画であり、少師は随侯のお気に入りになる」と述べました。

楚の武王はわざと陣営を乱し、随の少師と会見を行いました。

少師は随の本陣に戻ると「楚軍を追撃するべし」と進言しましたが、季梁の進言により随軍は追撃を行わなかったわけです。

しかし、闘伯比が予想した展開となります。

害虫の駆除

紀元前704年までには、随の少師は随侯に気に入られ寵臣となっていました。

こうした状況を見て闘伯比は楚の武王に「もう十分です。相手に隙が出来ています。好機を逃してはいけません」と出陣を促す事になります。

楚の武王は沈鹿で諸侯を招集しますが、随と黄は訪れず、自らは随を攻撃し、薳章には黄に向かって進軍を行わせました。

と随の間で速杞の戦いが起きますが、随侯は季梁の進言を退け、真っ向から楚軍とぶつかりました。

楚軍は随軍を大破し闘丹が少師を捕らえる大金星を挙げています。

随は楚と講和を望み、楚の武王は却下しようとしますが、闘伯比は「天が随の害虫(少師)を除きました。隋はまだ攻略する事が出来ません」と述べた事で、楚軍は撤退しました。

闘伯比は随は少師がネックになっている事を悟っており、見事な作戦により勝利に導いたと言えそうです。

屈瑕の敗北を予見

楚の武王の子の屈瑕は紀元前699年に、羅への遠征に向かう事になります。

屈瑕は前年に見事な策で絞国を降しており、意気揚々と羅国に向かったのでしょう。

闘伯比は屈瑕を見送りましたが、帰りの道中で御者に「莫敖(屈瑕)は必ず敗れる。つま先を高く上げて、慎重さに欠けている」と述べました。

屈瑕をみた闘伯比は先の戦いでの勝利で、屈瑕は気が大きくなっており、慢心していると考えたのでしょう。

闘伯比は「つま先立ちでは遠くには行けないし、功業を成す事は出来ない」と考えたはずです。

実際に羅に向かった屈瑕は防備を怠り、敵を軽視していました。

闘伯比はの武王に謁見し「屈瑕に援軍を送る様に」と説きますが、楚の武王は許しませんでした。

楚の武王は闘伯比の考えが理解出来ませんでしたが、後に夫人の鄧曼に会うと、闘伯比の言葉の意味を諭し、夫を諫めています。

ここにおいて、楚の武王は頼国の人を援軍として送りますが、援軍が到着する前に、屈瑕は敗れ自害しました。

これが闘伯比の最後の記述ですが、最後まで賢臣ぶりを見せてくれたと言えるでしょう。

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