
| 名前 | 木菟宿禰(つくのすくね) |
| 別名 | 平群木菟 |
| 時代 | 古代日本 |
| 主君 | 応神天皇→仁徳天皇→履中天皇 |
| コメント | 仁徳天皇と同じ日に生まれた逸話がある |
木菟宿禰は日本書紀に登場し、武内宿禰の子でもあります。
応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に仕えました。
日本書紀には仁徳天皇と同じ日に生まれた話が記録されています。
履中天皇の時代には主君の為に住吉仲皇子を討った刺領巾を不忠だとし、殺害した逸話も残っています。
木菟宿禰は父親である武内宿禰に比べると知名度は落ちますが、三代の天皇に仕えた忠臣だと言えるでしょう。
木菟宿禰は仁徳天皇と同じ日に生まれる
日本書紀に木菟宿禰が生まれた時の不思議な話が掲載されています。
応神天皇の時代にみみずくが産殿に飛び込んで来た話があります。
応神天皇は意味が分からず、翌朝に武内宿禰を呼び「これはどういう事だろう」と訪ねました。
武内宿禰は「これは吉兆です。昨日に私の妻が出産しましたが、ミソサザイが産屋に飛び込んで来たのです。
これもまた不思議な事だと思いました。」
この時に生まれた武内宿禰の子が平群木菟です。
応神天皇は「武内宿禰の子と自分の子は同じ日に生まれ、両方にしるしがあった。
これは天のお示し意外に考えられない。
お互いの鳥の名をとって、子共に名付け後のしるしとしよう」と提案しました。
これにより応神天皇の子は大鷦鷯尊となり、武内宿禰の子は木菟宿禰と名乗る事になります。
日本書紀には木菟宿禰を「平群の臣の先祖である」と書き示しました。
平群木菟の謎
先の記述が正しければ、木菟宿禰は応神天皇の時代に生まれた事になります。
しかし、日本書紀の応神天皇の3年に百済の辰斯王が即位し、礼に背く行為があった話が掲載されています。
百済に対し日本側では辰斯王の態度を責めるために、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰と共に木菟宿禰を派遣した話があります。
応神天皇の御世に木菟宿禰が生まれたのであれば、応神天皇の3年に木菟宿禰が百済への使者になれるはずがなく、矛盾が生じています。
応神天皇の3年に木菟宿禰が百済への使者になるのであれば、少なくとも神功皇后や仲哀天皇の御世に生まれていなければ使者になる事は出来ないはずです。
この点は日本書紀の矛盾点となっています。
新羅を攻撃
葛城襲津彦を朝鮮に派遣し弓月君を迎えに行かせますが、一向に帰って来なかった話があります。
業を煮やしたのか応神天皇は、その16年8月に平群木菟宿禰及び、的戸田宿禰を加羅に派遣しました。
木菟宿禰らは兵を集めて新羅の国境まで行くと、新羅の王は詫びを入れた話があります。
木菟宿禰は弓月君や葛城襲津彦と共に無事に帰還する事に成功しました。
応神天皇の時代に木菟宿禰が生まれたのであれば、若くして大功を挙げた事になるでしょう。
ただし、古代日本の年表は信用する事が出来ず、実際にはどの様になっていたのかは不明です。
木菟宿禰と刺領巾
仁徳天皇が崩御すると太子の履中天皇が即位する事になっていましたが、住吉仲皇子が黒媛を犯しました。
住吉仲皇子は履中天皇を殺害しようとしますが、木菟宿禰は物部大前宿禰・阿知使主と共に履中天皇を逃しています。
瑞歯別皇子(反正天皇)は刺領巾に住吉仲皇子を殺害させました。
ここで木菟宿禰は瑞歯別皇子に次の様に述べています。
※日本書紀より
刺領巾は人のために自分の主君を殺害した。
その功績は大きいが自分の主君に対して、慈悲の無い行動である。
生かしておくわけにはいかない。
木菟宿禰は刺領巾を誅しました。
履中天皇は践祚し即位しますが、その2年に蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、円大使主と木菟宿禰も政治を関与したとあります。
木菟宿禰は履中天皇の側近として活躍したのでしょう。
これ以降に木菟宿禰は日本書紀に登場せず、履中天皇の時代に世を去ったとみる事が出来ます。