
趙伯魯は趙鞅の子で、趙襄子の兄でもあります。
伯魯と呼ばれる事も多いです。
趙鞅は最初は趙伯魯を太子としていましたが、姑布子卿の言葉もあり、趙無恤(趙襄子)に太子を代えました。
趙伯魯は太子を廃されても、弟を恨まず弟を可愛がり、補佐する事になります。
趙無恤の方でも兄に恩義を感じており、代を取った時には趙伯魯の子の趙周を代の成君としており、自らの太子は趙伯魯の孫の趙浣(趙の献侯)としています。
趙襄子は冷徹な策士としての一面も見られますが、趙伯魯には絶大なる恩義を感じており、自らの子を趙の後継者にしようとはしませんでした。
趙伯魯は春秋戦国時代でも屈指の人格者でもあったと言えるでしょう。
太子の座を剥奪される
趙伯魯は晋の実力者である趙鞅の子であり、太子となりました。
趙伯魯が太子になった理由ですが、母親の家柄もよく太子に相応しいと見られていたのでしょう。
ある時に、姑布子卿が趙鞅の元を訪れました。
趙鞅は自らの子らを集め姑布子卿に人相を見て貰う事にしたわけです。
この中には、趙伯魯も含まれていました。
しかし、姑布子卿は「将軍になれる方がいない」と述べ、趙伯魯も「将軍にはなれない」と指摘された事になるのでしょう。
この後に、姑布子卿の言葉もあり、趙無恤(趙襄子)が呼ばれると姑布子卿は「将軍になれる」と絶賛しました。
趙鞅は自らの子らを試しますが、趙無恤が一番賢い事を悟り、趙無恤を後継者に定める事になります。
当然ながら、趙伯魯は太子の座を廃されました。
しかし、趙伯魯は太子の座を剥奪されても恨まず、弟の趙無恤を支え続ける事になります。
趙伯魯が率先して趙無恤に臣下の礼を取った事で、趙が纏まった部分も多々あるのでしょう。
趙無恤の方でも兄の趙伯魯に絶大なる恩義を感じる事になります。
兄と弟で争う後継者問題は枚挙いとまがないわけですが、趙伯魯は弟を盛り立てたわけです。
趙襄子の方でも「自分は代理の君主」として考えていた様であり、代国を攻め取った時は趙伯魯の子である趙周を代に封じており、自らの後継者は趙伯魯の孫の趙浣(趙の献侯)としました。
趙伯魯がいつ亡くなったのかは記録がなく不明ですが、趙襄子が代を攻め取り、趙伯魯の子の趙周を封じた紀元前463年までには亡くなっていた事でしょう。
趙伯魯と趙襄子の違い
趙伯魯と趙襄子(趙無恤)の違いについて書いてみたいと思います。
趙伯魯を見ていると弟を支えるなど明らかに人格者となります。
平和な時代であれば、趙伯魯が趙の後継者であってもよさそうですが、父親の趙鞅は「優しすぎる」と判断したのではないでしょうか。
趙襄子は即位すると代王に姉を嫁がせ、宴に呼び出すと兵を繰り出し代王を討ち取り、代を制圧してしまいました。
代に嫁いだ趙襄子の姉の悲しみは、大きく自らの命を絶ってしまった摩笄山の話があります。
代王を欺いたやり方ですが、人格者の趙伯魯には決して出来ない様な行動だったはずです。
戦いであれば「敵の虚をつく」事は大事ですが、趙伯魯には荷が重たかった事でしょう。
他にも、晋陽の戦いでは趙襄子は3年に渡り籠城戦を展開し、城中は「我が子を取り換えて食べる」ほどの地獄絵図となっていましたが、人格者の趙伯魯であれば、民の助命を条件に降伏してしまった可能性もあるはずです。
これらを考えると、趙伯魯では非情になれずに、趙は没落してしまったと考えられます。
ただし、趙伯魯は人格者であり、弟を補佐し国を纏めるなど、こういう事に関しては、かなりの適任があったのではないでしょうか。
個人的には趙伯魯は「弟を補佐する」という自分に最も適任であるポジションを得て、国の為に励んだと感じました。