名前 | 山名師義 |
生没年 | 1328年ー1376年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:山名氏時 |
兄弟:義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治、氏頼、氏重、義数、高義 | |
子:山名時義の室、義幸、氏之、義熙、満幸、幸松右馬助、大坂九郎、山名時熙の正室? | |
コメント | 父親を補佐し山名氏の勢力拡大に貢献 |
山名師義は山名時氏の子で戦いだけではなく、室町幕府との交渉でも活躍しました。
住吉合戦では負傷し楠木正行に敗れましたが、父親の山名時氏を補佐し山名氏興隆の礎を築いています。
山名時氏の時代に山名氏は山陰や山陽に勢力を伸ばし実力で大勢力となりますが、山名師義と山名時氏の連携が機能した結果だと考えられています。
佐々木道誉との対立で激怒するなどもありましたが、幕府との交渉を上手くまとめ山名氏は好条件で幕府に帰参しました。
今回は父親との連携で勢力を拡大させた山名師義を解説します。
住吉合戦で負傷
山名師義は山名時氏の子であり、住吉合戦に参加しました。
住吉合戦では楠木正行の各個撃破戦略が功を奏し、山名軍は大敗したとも伝わっています。
負け戦の中で山名師義だけではなく、総大将の山名時氏が負傷し、叔父の山名兼義は最後を迎えました。
山名時氏の最大の補佐役は山名兼義だったと考えられており、これ以降の山名時氏の最大の補佐役として山名師義の名が挙がる事になります。
楠木正行との住吉合戦では、山名氏の一族でも死傷者が出ており、山名氏の人的な入れ替えの時期でもあったはずです。
観応の擾乱と山名氏
観応の擾乱で山名時氏は足利直義に与したりもしましたが、最終的に足利尊氏を支持しました。
足利尊氏は足利直義を討つために関東に出兵しますが、この時に南朝に降伏しており正平一統が為されています。
しかし、南朝は正平一統は苦し紛れの一手に過ぎないかと看過しており、京都に兵を向ける事になります。
足利義詮は光厳上皇ら皇族を置いて京都から脱出してしまいますが、後に逆襲に後村上天皇を八幡で包囲しました。
南朝との八幡の戦いに山名師義が参戦した事が分かっています。
山名氏の当主は山名時氏でしたが、名代として山名師義を参戦させたわけです。
山名師義を八幡の戦いに送り出したのは、所領回復が目的だったとされています。
八幡の戦いでは幕府軍が南朝を破り、京都を取り戻しました。
山名師義と佐々木道誉の対立
戦いが終わると山名師義は、若狭国税所今富名の知行回復を佐々木道誉に願いました。
しかし、佐々木道誉は曲者でもあり、知行を与える様な振りをしながらも、中々動かなかったわけです。
山名氏が足利尊氏に味方したのは忠誠心ではなく、若狭の所領を得る為であり、幕府内の混乱を利用したとみる事が出来ます。
こうした狙いを佐々木道誉はよく分かっており、のらりくらりとした態度を取った可能性もあります。
最終的に山名師義は佐々木道誉の態度に激怒しており、山名時氏の元に帰還しました。
山名師義が事情を山名時氏に説明すると、山名時氏も激怒し反幕府に舵を切り南朝の武将となりました。
南朝の武将となった山名氏は伯耆、因幡、出雲、美作の四カ国を制圧したなどの噂が流れたりしており、山名師義が中国地方の大部分を制圧したなどの情報も流れています。
山名師義が中国地方を制圧したと言うのは、誤情報ですが、山名氏が足利直冬と手を組み勢力を拡大したのは事実です。
父との連携
文和二年(1353年)に美作にいた山名師義が美作から没落したとの噂が流れました。
実際の山名師義は問題が起きて没落したわけではなく、父親である山名時氏が因幡におり、何かしらの相談に行ったわけです。
山名師義が山名時氏に対し、何の相談をしていたのかは不明ですが、山名親子で密に連絡を取っていた証なのでしょう。
山名氏では山名時氏と山名師義の連携が機能し、勢力を拡大させていたとみる事が出来ます。
山名師義の交渉術
山名氏は中国地方で勢力を拡大させましたが、室町幕府の方でも斯波義将が管領となり、斯波高経が後見人になると安定を見せ始めました。
西中国地方の重鎮である大内氏が幕府に好待遇で帰順し、山名氏も幕府に帰順する事になりまます。
山名時氏は山名師義と山名氏冬に上洛させました。
太平記によると、この時に幕府との交渉役を担ったのが山名師義だったと記録されています。
山名氏は足利義詮の時代に実力で得た伯耆、丹波、丹後、因幡、美作の安堵を約束されただけではなく、過去に揉めていた若狭国税所今富名も返還される事になります。
余りにも好条件で山名氏は幕府帰参を認められた事で、世間の人々は「幕府の敵になってから味方になった方がマシ」とまで述べた話があります。
それでも、山名師義は交渉を上手くまとめたと言えそうです。
山名師義の最後
山名時氏は1371年に亡くなりますが、後継者となったのが山名師義です。
山名師義は実績もあり、後継者になるのは既定路線だったのでしょう。
しかし、山名師義は5年後に1376年に亡くなってしまいました。
父親である山名時氏が亡くなってから、僅か5年しか経っておらず、山名氏家中に不穏な空気が流れる結果となります。
山名師義の後継者は山名時義となりますが、師義の子である山名満幸や山名氏清が不満を持つなどもあり、団結力に欠ける結果となりました。
山名氏は足利義満の時代に山名時義一族の討伐が実行された結果として、明徳の乱がおきています。