後漢

徐淑(じょしゅく)は茂才に推挙され度遼将軍となる

2022年7月22日

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宮下悠史

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名前徐淑(じょしゅく)
生没年不明
時代後漢
一族子:徐璆

徐淑は度遼将軍となり、辺境で名を馳せた人物だと伝わっています。

徐淑は後漢書に伝を立てられている人物でもあります。

徐淑は性格は温厚だった話もありますが、心に大志を持ち多くの優れた人物と交流を持った記録があります。

今回は徐淑の記事ですが、下記の動画を元にして作ってあります。

動画を見て貰うと分かりますが、徐淑の子が徐璆であり、最初の2分ほどが徐淑の話です。

この動画は 亶夏王朝さんの動画であり、この動画を元にして書き下ろしの様な感じで記事としました。

亶夏王朝さんによれば、下記の記述をベースに動画にしたとの事です。

全譯 後漢書 (14)列傳(四) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版

全譯 後漢書 (16)列傳(六) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版

全譯 後漢書 (17)列傳(七) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版

かなりマニアックに作られており、動画の方もお勧め出来ます。

徐淑の人柄

徐淑は徐州広陵郡海西県の人で、子に徐璆がいます。

徐淑の子の徐璆は清廉な人物であり、三国志演義では袁術死後に玉璽を持ち去り、曹操に届けた人物でもあります。

徐淑は謝承の後漢書によれば「性格は穏やかで博識があり、学問を好んで道を楽しんだ」とされています。

徐淑の人間性を考えれば、非常に安心して付き合えるような人物でもあったのでしょう。

徐淑は若年の頃に洛陽に行き「孟子易」「春秋公羊伝」「礼記」「周礼」を研鑽し、六韜に至っては暗誦する事も出来たそうです。

これらの記述から、徐淑は学問が出来た事が分かります。

徐淑は茂才に推挙され、渤海郡脩県の県令となりました。

徐淑は名士でもあり、家柄と優秀さで茂才に推挙されたのでしょう。

徐淑は琅邪郡の都尉となり、度遼将軍になっています。

孝廉になれず

後漢書左雄伝によると、漢の順帝の陽嘉元年(132年)に、尚書令の左雄は論語や礼記の記述を基に、孝廉の基準を変えようとしました。

今までは40歳未満の者でも、孝廉に推挙される事が可能でしたが、左雄は孝廉に推挙される者は、年齢が40歳以上の者としたわけです。

この翌年である133年に、徐淑は孝廉に推挙されながらも、孝廉になる事が出来ませんでした。

徐淑の年齢が40歳未満であり、孝廉の資格に満たなかった為です。

尚、動画を見て貰った方は分かるかと思いますが、徐淑は孝廉になれず、代わりに茂才に推挙されたのではないか?とも考えられます。

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