名前 | 徐淑(じょしゅく) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢 |
一族 | 子:徐璆 |
徐淑は度遼将軍となり、辺境で名を馳せた人物だと伝わっています。
徐淑は後漢書に伝を立てられている人物でもあります。
徐淑は性格は温厚だった話もありますが、心に大志を持ち多くの優れた人物と交流を持った記録があります。
今回は徐淑の記事ですが、下記の動画を元にして作ってあります。
動画を見て貰うと分かりますが、徐淑の子が徐璆であり、最初の2分ほどが徐淑の話です。
この動画は 亶夏王朝さんの動画であり、この動画を元にして書き下ろしの様な感じで記事としました。
亶夏王朝さんによれば、下記の記述をベースに動画にしたとの事です。
全譯 後漢書 (14)列傳(四) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版
全譯 後漢書 (16)列傳(六) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版
全譯 後漢書 (17)列傳(七) - 株式会社汲古書院 古典・学術図書出版
かなりマニアックに作られており、動画の方もお勧め出来ます。
徐淑の人柄
徐淑は徐州広陵郡海西県の人で、子に徐璆がいます。
徐淑の子の徐璆は清廉な人物であり、三国志演義では袁術死後に玉璽を持ち去り、曹操に届けた人物でもあります。
徐淑は謝承の後漢書によれば「性格は穏やかで博識があり、学問を好んで道を楽しんだ」とされています。
徐淑の人間性を考えれば、非常に安心して付き合えるような人物でもあったのでしょう。
徐淑は若年の頃に洛陽に行き「孟子易」「春秋公羊伝」「礼記」「周礼」を研鑽し、六韜に至っては暗誦する事も出来たそうです。
これらの記述から、徐淑は学問が出来た事が分かります。
徐淑は茂才に推挙され、渤海郡脩県の県令となりました。
徐淑は名士でもあり、家柄と優秀さで茂才に推挙されたのでしょう。
徐淑は琅邪郡の都尉となり、度遼将軍になっています。
孝廉になれず
後漢書左雄伝によると、漢の順帝の陽嘉元年(132年)に、尚書令の左雄は論語や礼記の記述を基に、孝廉の基準を変えようとしました。
今までは40歳未満の者でも、孝廉に推挙される事が可能でしたが、左雄は孝廉に推挙される者は、年齢が40歳以上の者としたわけです。
この翌年である133年に、徐淑は孝廉に推挙されながらも、孝廉になる事が出来ませんでした。
徐淑の年齢が40歳未満であり、孝廉の資格に満たなかった為です。
尚、動画を見て貰った方は分かるかと思いますが、徐淑は孝廉になれず、代わりに茂才に推挙されたのではないか?とも考えられます。