李歆は正史三国志の陳泰伝などに名前がある人物で、劉禅の伝である後主伝では李韶の名で登場します。
李歆と李韶のどちらの名が正しいのかは不明であり、ここでは李歆の名前で話を進めます。
正史三国志の李歆に関しては、姜維の命令で麴山に城を築き守備をした記録があるだけです。
姜維の援軍が得られず陳泰や郭淮に追い詰められた李歆は句安と共に、麴城の戦いで敗れ魏に降伏しました。
魏に降伏した後の李歆の動向は不明です。
正史三国志の李歆に関しては、殆どが句安と同じであり、句安の記事で内容を書きましたので、ここでは三国志演義をベースにして李歆の内容をお話します。
先発隊を任される
三国志演義の第107回の記述だと費禕は北伐に反対しましたが、姜維が勅命を受けて夏侯覇と共に北伐を行う事となります。
漢中に戻った姜維は夏侯覇と共に魏を攻撃しますが、この時に先発隊となったのが李歆と句安です。
李歆と句安は姜維の命令で1万5千の兵を率いて麴山に到達し、麴山の前に二つの城を築きました。
句安が東の城を守備し、李歆が西の城を守る事になります。
魏軍との戦い
郭淮は蜀の北伐を知ると、洛陽に報告するだけではなく、副将の陳泰に兵五万と将兵を与え蜀軍と戦わせました。
陳泰の軍が近づくと、李歆と句安は城を出て迎撃する事となります。
魏軍は二手に分かれて李歆と句安と戦い乱戦となりますが、李歆らの兵は少なく城に撤退しました。
李歆らは麴山の前に築いた城に籠城しますが、陳泰は城を包囲し、さらには糧道を断つ事になります。
さらには、郭淮と陳泰は相談し上流の川を堰き止めてしまい麴山の城を水攻めとしました。
水攻め
麴城の軍に水が行き渡らなくなり、李歆は兵を率いて城外へ水汲みに出ました。
郭淮や陳泰が率いた雍州の兵が李歆を見つけると攻撃し、李歆は奮戦しますが、囲みを突破する事が出来ないと判断し城に戻ります。
李歆だけではなく、句安の軍も水が不足しました。
李歆と句安は相談し、兵を一つにして打って出て激しく戦いますが、再び敗れてしまい城内に引き返しました。
李歆と句安は城を出て戦う度に、魏軍に敗れていたわけです。
兵士達は水不足に苦しみ、麴山の兵は姜維の援軍を待ち望む事になります。
包囲を突破
李歆と句安は、姜維の援軍が無ければ城は持たないと判断しました。
ここで李歆と句安は相談し、李歆が一か八かで血路を開き姜維に援軍を求める事になります。
李歆は数十騎を率いて城門を開き打って出ました。
李歆は敵に包囲されますが奮戦し、死に物狂いで敵を突きまくり、遂には包囲を突破しました。
しかし、李歆の従った数十騎は全て戦死しており、李歆自身も重傷と言った有様でした。
李歆が包囲を突破した頃に、北風が激しく吹き大雪となり、城内の兵士たちは雪を溶かして兵糧として使う事になります。
城内では水や食料の不足が深刻であり、予断を許されない状況だったわけです。
姜維に援軍要請
魏軍の包囲を突破した重傷の李歆ですが、2,3日進むと姜維の軍と遭遇しました。
姜維に合うと李歆は馬を降りて平伏し麴城の惨状を伝え一刻の猶予もないと伝えます。
姜維は李歆に対し「援軍を遅らせたのではなく、約束した羌族が到着しない事で軍を進めることが出来なかった」と伝えました。
ここで李歆がどの様に思ったのかは不明ですが、李歆は重傷であり戦えるような状態ではなかったわけです。
李歆は養生の為に西川に行く事になり、この後に姜維と夏侯覇は魏軍と戦う事になります。
ただし、姜維と夏侯覇の軍は史実と同様に麴城までは到達出来ず、三国志演義でも孤立無援となった句安は魏に降伏しました。
史実だと李歆と句安の二将は姜維の援軍が撤退した事で降伏しており、李歆が姜維への使者となった記録はありません。
尚、正史三国志だと句安は263年の蜀の滅亡の時に鍾会や鄧艾の軍にいた記録がありますが、李歆は魏に降伏したのを最後に記録が途絶えています。