三国志 後漢 魏(三国志)

楽進は八面六臂の活躍をした名将

2023年5月13日

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宮下悠史

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名前楽進(がくしん) 字:文謙
生没年生年不明-218年
時代後漢末期、三国志
勢力曹操
年表199年 下邳の戦い
200年 官渡の戦い
215年 合肥の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

楽進は正史三国志に登場する人物で、曹操に仕えました。

楽進は非常に地味な印象がありますが、実際の楽進は猛将であり、張遼にも匹敵する程の武勇を持っています。

戦場では何度も一番乗りをしていますし、袁紹と曹操の戦いである官渡の戦いで、淳于瓊を斬ったのも楽進です。

多分ですが、三国志で一番乗りをした記録が最も多いのが楽進ではないかと感じました。

ただし、正史三国志に楽進に関する記述は簡略であり、張遼の様なド派手な戦いもなく、どうしても地味な印象になってしまいます。

しかし、史実の楽進を見る限りでは、記録は簡略ではありますが、八面六臂の活躍をした名将だという事は間違いないでしょう。

特に失態などもしてはいません。

楽進は正史三国志では張遼・于禁張郃徐晃と共に曹操時代に活躍した代表的な武将として、張楽于張徐晃伝に収録されています。

尚、三国志演義での楽進は成廉や郭図を射殺する活躍はありますが、濡須口の戦いで淩統と一騎打ちを繰り広げ、最後は甘寧に射殺して最後を迎えています。

しかし、正史三国志を見る限りでは成廉や郭図を討ち取った記述や、甘寧に射殺された話はなく、創作だと言えるでしょう。

曹操に仕える

楽進は兗州陽平郡衛国県の人であり、体つきは小柄でしたが度胸があり勇猛な武将でした。

三国志では関羽張飛趙雲など大柄な武将がいますが、楽進は小柄だったという事です。

楽進は曹操に仕え、曹操は楽進を帳下の吏としました。

帳下の吏は記録係でもあり、楽進は文官のキャリアスタートだったとも言われますが、帳下の吏と言うのは下級の軍官を指す言葉でもあります。

それを考えると、文官と言うよりも、楽進は曹操が高く評価した事で、自分の傍に置いておきたくて帳下の吏としたのでしょう。

曹操は有能な人材を広く集めており、楽進も曹操の目にとまったと言えます。

楽進は曹操の旗揚げの頃から付き従っていた様であり、古株でもありました。

初期の曹操陣営の代表的な人物と言えば一族の夏侯惇夏侯淵曹仁曹洪などが有名ですが、楽進も早くから曹操に仕えたという事です。

楽進は曹操に仕え生涯の主としました。

千人の兵

曹操はある時に、楽進に地元で兵を募集させた事がありました。

ここで楽進は千人ほどを集めて曹操の元に帰還しました。

曹操が楽進が兵をしっかりと集めて帰ってきた事で、有能さを確信したわけです。

曹操は楽進を軍の仮司馬・陥陣都尉としました。

募兵を見事に果たした時には、楽進は兵士を率いる身分となります。

八面六臂の活躍

楽進は曹操軍の武将として各地を転戦し、八面六臂の活躍を見せる事になります。

呂布との濮陽の戦い、雍丘での張超攻め・苦では袁術配下の橋蕤との戦いに参加したとあります。

ここで凄いのは、これらの戦いで楽進が全て1番乗りをしたとあり、楽進の勇猛さが光ります。

魏の五将軍の中で最も勇猛だったのが、楽進だったのではないかと感じました。

曹操は楽進の功績を評価し、広昌亭侯としています。

さらには、安衆の張繍との戦や呂布との下邳の戦いにも参加し別将を打ち破る活躍を見せます。

楽進は眭固を射犬で破り、沛では劉備の軍も撃破しました。

楽進は功績により討寇校尉に昇進しました。

楽進は正に八面六臂の活躍をしたと言えるでしょう。

官渡の戦い

西暦200年になると公孫瓚を破り河北四州を統一した袁紹曹操の対立が頂点に達し、官渡の戦いが勃発します。

ここでも楽進は同僚の于禁と共に5000の兵を率いて渡河し、敵に攻撃を仕掛け、袁紹軍の陣を30カ所も焼き、数千の兵を討ち取り20人ほどの将軍を捕虜としました。

官渡の戦いの緒戦と言えば、関羽が顔良を討ち取ったり、荀攸の策で文醜が討ち取られるなどもありましたが、楽進も于禁と共に前哨戦で見事な功績を挙げているわけです。

楽進は于禁と共に奮戦しましたが、兵力や物資では曹操軍が劣っており、段々と押し込まれて行きました。

しかし、許攸が曹操に寝返り、曹操は淳于瓊が守る烏巣を自ら兵を率いて攻撃する事にします。

この時に曹操は本営を曹洪に守らせ楽進と共に烏巣を襲撃しました。

曹操が楽進を大事な烏巣の戦いに連れて行ったのは、楽進が曹操軍で随一の切り込み隊長であり武勇を期待したからでしょう。

楽進は曹操の期待に多いの応え烏巣の戦いでは、敵将の淳于瓊を斬りました。

これにより曹操の軍は袁紹軍の兵糧を焼き勝負が決する事となります。

正史三国志の楽進伝でも「力の限り戦った」とする記述があり、楽進の奮戦は光っていたのでしょう。

尚、淳于瓊は霊帝の時代には西園八校尉となり、袁紹軍においても沮授郭図、淳于瓊が軍事のトップであり、楽進の功績は極めて大きかったと言えるでしょう。

河北平定戦でも活躍

楽進は、その後も功績を重ね黎陽の袁譚、袁尚討伐では、敵将の厳敬を斬り功績により行遊撃将軍となりました。

さらに、楽進は別動隊を率いて黄巾賊を討伐し、楽安郡を平定します。

正史三国志によると楽進は審配が守る鄴を攻撃し、審栄の裏切りで城が陥落すると、袁譚との南皮の戦いにも参加しました。

南皮での戦いでも楽進は1番乗りし、袁譚の東門に突入する活躍を見せます。

袁譚が曹操に敗れると、別動隊を率いて雍奴を攻撃し、これも打ち破りました。

袁煕と袁尚は北方に逃亡しています。

折衝将軍

206年に曹操は献帝に上奏文を作成し楽進を張遼于禁と共に讃えました。

彼等は武勇に優れ計略は行き届き、忠義を第一とし節操のある人物です。

戦いになれば常に指揮を執り、どんなに敵の陣営が強固であっても必ずや攻め落とし、自ら軍の士気を鼓舞しています。

別動隊を率いれば、軍を統率し兵士を労い命令を遂行するなど、敵と戦えば決断を誤る事もありません。

故に彼らの功績を調べて記録し、活躍に見合う褒美を与えるべきだと存じます。

曹操の上奏により楽進は折衝将軍となり、于禁は虎威将軍、張遼は盪寇将軍となりました。

この頃には、楽進は文句なしで魏を代表する将軍となっていた事でしょう。

壺関の戦い

河北は曹操の手に落ちたかに思えましたが、并州にいた袁尚の甥の高幹を中心に曹操包囲網を形成しました。

曹操は烏桓、徐和管承昌豨、司馬俱、劉表の元にいた反曹操派の劉備に囲まれる形になったわけです。

ここで曹操は楽進に李典と共に、高幹の対処を命じました。

楽進らは北道を通り上党に行き、迂回して、背後に出ます。

楽進としては高幹を急襲したかったのでしょう。

楽進、李典らは壺関にて高幹と戦う事になります。

楽進らは壺関の戦いでは、連戦して敵兵の首を斬ったとあり、決定的な勝利は得られませんでしたが、戦いを有利に進めました。

この後に、曹操自身が壺関に来た事を考えれば、楽進らの役目は曹操が来るまでの時間稼ぎでもあったはずです。

楽進は今までは斬り込み隊長であり部隊長みたいな役割でしたが、壺関の戦いでは曹操が来るまでではありましたが、戦場の総指揮を任されています。

楽進は曹操が到着まで高幹を封じ込める活躍を見せます。

この後に曹操の本隊が到着し、曹仁により壺関は陥落しました。

河北平定

正史三国志の記録によれば、ここで楽進は休む間もなく、曹操と共に青州の管承討伐に向かいます。

管承討伐では淳于に陣を置き楽進や李典が攻撃し、敵軍を打ち破りました。

楽進は西の高幹と壺関で戦い、その後に直ぐに東の管承と戦っており、ここでも八面六臂の活躍をしたと言えます。

曹操は郭嘉張遼と共に河北に兵を進め、烏桓を攻撃し袁尚、袁煕らの首は、公孫康により届けられました。

曹操の河北統一において、楽進の功績は極めて髙かったわけです。

襄陽に駐屯

河北平定を成した曹操は南下を始め荊州に兵を進めました。

楽進伝の記述によると、次の記述が存在します。

※正史三国志 楽進伝より

荊州がまだ服従していなかったので、派遣されて陽翟に駐屯した。

陽翟は豫州潁川郡にある陽翟県であり、楽進は赤壁の戦いの前の段階では、後方にいた事になります。

このタイミングで劉表が亡くなり、劉琮が後継者となりましたが、曹操は難なく劉琮を降伏させています。

楽進は荊州が平定されると、襄陽に駐屯しました。

この後に魯粛周瑜孫権を動かし、孫権・劉備連合軍と曹操の間で赤壁の戦いが行われる事になります。

それを考えると、楽進は赤壁の戦いでの本戦には参加せず、後方の襄陽にいたと見る事が出来ます。

しかし、曹操は赤壁の戦いで敗北を喫しました。

関羽との戦い

曹操は戦いに敗れると江陵を曹仁に任せたとあり、楽進は引き続き荊州北部の襄陽にいたのでしょう。

曹仁はよく守りますが、周瑜らにより江陵は陥落しました。

これにより襄陽にいた楽進が劉備孫権の勢力と最前線で戦う指揮を執る事になったはずです。

周瑜が211年に亡くなると、孫権は劉備に江陵など荊州を貸し与えました。

これにより楽進は劉備と最前線で戦う事となります。

劉備は張魯討伐を名目に劉璋の懐に飛び込みますが、内心では龐統ら策士を連れ益州を乗っ取ろうと画策していました。

それでも、劉備は劉璋に援助を受け取ると、張魯討伐の構えを見せ北上しています。

劉備は関羽に荊州を任せ、楽進と対峙させています。

ここで孫権と曹操の間で濡須口の戦いが勃発し、孫権と同盟関係にある劉備陣営の関羽は荊州を北上し楽進と対峙しました。

楽進は江夏太守の文聘と共に関羽を迎え撃つ事になります。

関羽は劉備と並び戦上手として有名でしたが、ここでは楽進の采配が優れ関羽、蘇非の軍を破りました。

さらに、楽進は関羽に味方した異民族をも破ります。

楽進は臨沮の杜普や旌陽の梁大らを多いに打ち破る活躍をみせました。

ここで劉備は楽進を警戒し「ここで関羽を救援しないと楽進の脅威は張魯を超えるだろう」と述べています。

劉備に名指しで楽進の名前がでる辺りは、当時の楽進の名声は中華に鳴り響いていた証となるでしょう。

ただし、楽進と関羽の戦いは、これで終わった様であり、お互いに兵を引く結果となります。

しかし、劉備の方は張松の内通がバレてしまい劉璋との対立が始り、劉備は諸葛亮張飛趙雲などを益州に呼び寄せ入蜀を果たしました。

合肥の戦い

この後に曹仁が荊州北部を任された様であり、楽進は東の孫権との最前線である濡須口に移動する事になったのでしょう。

ここで楽進は節を貸し与えられました。

しかし、孫権と曹操の戦いは決着がつかず、曹操は兵を引き合肥を張遼、楽進、李典に任せました。

張遼、楽進、李典は3人とも名将でしたが、仲が悪かったと伝わっています。

孫権は10万の大軍を合肥に向けますが、楽進ら合肥守備隊は7000人ほどしかいませんでした。

しかし、張遼、楽進、李典らは戦いになると、わだかまりを解き孫権を追い詰める事になります。

この時に、張遼や李典は城の外で戦いましたが、楽進は合肥の城を守りました。

城の守りという地味な役割に見えますが、楽進は堅牢さを見せ呉軍を寄せ付けず、結果として合肥の戦いでは大勝する事になります。

楽進の最後

楽進は功績により、食邑五百戸を加増され、合計で千二百戸となり子は列侯となりました。

楽進自身も右将軍となり、当時の曹操陣営においては最も尊貴な将軍になったと言えるでしょう。

後に夏侯惇が前将軍となりますが、この時には左将軍に于禁がなっていただけであり、楽進が魏の筆頭の将軍となったわけです。

しかし、楽進は建安23年(西暦218年)に没したと記録があり、合肥の戦いから3年ほどで世を去った事になります。

合肥の戦い以降に楽進が戦場に出た記録がなく、合肥の戦い後に体調を崩したり古傷が痛むなどもあり戦場に出れなくなっていたのかも知れません。

楽進は威候の諡を追贈されました。

楽進が亡くなると、楽綝が後を継ぎますが、諸葛誕の乱で命を落しています。

楽綝が没すると、楽肇が後を継ぎました。

尚、楽進は西暦243年の魏の曹芳の時代に、功臣として曹操の霊廟に祀られました。

曹真曹休夏侯尚桓階陳羣
鍾繇張郃徐晃張遼楽進
華歆王朗曹洪夏侯淵朱霊
文聘臧覇李典龐徳典韋

楽進の評価

楽進を見ると明らかに名将だと言えます。

しかし、楽進の記述は余りにも簡略過ぎており、地味な存在として歴史に名を残してしまいました。

陳寿も楽進に対して「功績の遺漏があったのではないか」と述べています。

個人的には楽進の突破力は三国志でも随一で、生涯に渡り戦場を駆け巡った名将だと言えるでしょう。

曹操の危機を度々救ったのも楽進であり、魏の五大将の一人に挙げられるのも当然だと感じました。

楽進は特に戦場で失敗したなどの話もなく、曹操の覇業を支えた名臣だと言えます。

個人的には世間の楽進の評価はもっと高くてもよいと感じています。

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