名前 | 真人(しんじん) |
コメント | 始皇帝が目指した人間離れした人を指す |
真人は方士の盧生が始皇帝に教えた人間離れした仙人の様な人を指します。
真人になった者は水に塗れず、火に焼けずと人間離れした事が出来る様になると言います。
しかし、真人になる方法が「人に居場所を知られない様にする」であり、非常に難しい内容でもありました。
盧生は始皇帝に真人になる方法を教えたわけですが、その年に侯生と共に逃亡しています。
盧生の言う方法を実行しても真人になるのは不可能であり、始皇帝は最後まで不老不死にも真人にもなる事が出来ませんでした。
勿論、人類が生まれてから真人になれた人間など、一人もいないはずです。
尚、始皇帝が残した碑文や文章の中で自らの事を「真人」と呼んだものは皆無であり、真人の話はあくまでも説話であり、真実ではないとする説もあります。
盧生の進言
始皇32年(紀元前215年)に巡遊中の始皇帝は盧生に仙人だとされる羨門高を捜索する様に命じられました。
盧生は「秦を滅ぼす者は胡なり」とする書物を見つけたりはしましたが、不老不死の仙薬や羨門高を見つける事が出来なかったわけです。
始皇35年(紀元前212年)に盧生は、始皇帝に次の様に進言しました。
※史記 始皇本紀より
盧生「私らは霊芝の奇薬、千人を捜索しましたが、いつになっても出会う事が出来ません。
仙人に出会う事が出来ないのは、何かしらの問題があるからのようです。
方術の教えに『人主は時に微行をなし、もって悪鬼よ去れ』とあります。
(意味:君主は時々臣下に隠れて微行し、体の鬱血した悪い気を去らす)
君主から悪気が去れば、真人になる事が出来ます。
君主の居所が臣下に漏れれば神気に乱れが生じるのです。
真人は水に入っても濡れる事もなく、火の中に飛び込んで焼ける事もなく、雲気を凌ぎ天地と共に長久するものです。
現在の主上(始皇帝)は天下を治めてはいますが、道家の言う所の恬淡になれているわけではありません。
どうか主上のいる場所を、人に知られない様にしてください。
これが実行出来れば、不死の薬が得られるはずです」
盧生は真人になる事が出来れば不老不死になれると、始皇帝に説いた事になります。
現代人の感覚であれば「盧生は嘘を言っている」と感じるはずです。
しかし、始皇帝は盧生の真人の話を聞くと次の様に述べました。
始皇帝「儂は真人になりたいと思う。自分の事を朕と呼んでいたが、これからは『真人』と呼ぶ事にしよう」
始皇本紀によると、始皇帝は本気で真人になろうと考え、実行に移す事になります。
ここまで行くと、盧生は始皇帝を使って遊んでいる様にも見えるわけです。
盧生は真人になる方法を始皇帝に教えましたが、盧生自身は真人になる方法を実践しても、真人になれるとは思ってもいなかった様にも感じました。
真人になる為に
始皇帝は真人になる為に、人に自分の居場所を知られぬ様にしようと考えました。
始皇帝は咸陽付近の二百里以内の宮殿二百七十に複道を開通させ、各宮殿には帷帳と鍾鼓と美人で満たし、配置させた部署を移動させない様にしました。
さらに、始皇帝は自分がいる場所や行幸先を告げた者がいれば、処刑すると宣言したわけです。
史記の始皇本紀の話が真実であれば、始皇帝は本気で真人になろうと考えていた事になります。
実践する始皇帝
始皇帝は梁山宮に行幸した時に、山上から丞相の一行を見ました。
史記には「丞相」としか書かれていませんが、遠くから李斯の一行を見かけたという事なのでしょう。
この時の李斯はお供の車や馬が多かった様であり、始皇帝は機嫌を損ねたとあります。
始皇帝としては李斯の能力を評価していましたが、権勢が高くなり多くの人々に注目されるのは、見ていて面白くなかったのでしょう。
この時に始皇帝の傍にいた宦官が、その事を李斯に告げました。
李斯は始皇帝に気を遣う様になり、お供の数を減らしたりしたわけです。
しかし、始皇帝は「宦官が私の言葉を丞相に言った」と考えました。
始皇帝は宦官たちに聞き取り調査をしますが、誰も正直にいう者はいなかったわけです。
始皇帝としては折角、真人になろうと考え行動していたのに、「李斯に梁山宮にいた」事がバレたのが気に入らなかったのかも知れません。
始皇帝は梁山宮に行った時にその場にいた宦官たち、全員を処刑しました。
この後に、始皇帝に付き従う者の中で、居場所を漏らす者がいなくなったと言います。
始皇帝は真人になる為に、人に居場所が知られない様にはしましたが、ずっと一人でいるわけにも行かず、宦官や護衛の兵士などは側にいたのでしょう。
尚、始皇帝はハードワーカーとしても有名ですが、政治を行い決裁を行う時は、咸陽宮で行ったとあります。
それを考えると、始皇帝は真人になろうとはしましたが、完全に居場所が知られない事は不可能であり、出来る限りの部分で行った事になります。
真人になれるからと言っても、始皇帝が何処にいるのかも誰も分からないのであれば、緊急の報告を行うことも出来ず、秦の政治は停滞する事になってしまいます。
真人になれない始皇帝
結論を言えば、始皇帝は真人になる事は出来ませんでした。
勿論、水に入っても塗れない、火の中に入っても焼けないなどという人間は、この世に存在するはずもなく、最初から真人になるのは無理があったはずです。
真人になる方法を教えた盧生ですが、侯生と共に出奔し、さらに始皇帝の政治批判もした事で始皇帝を激怒させました。
始皇帝も高い給料を盧生に払っており怒りが収まらなかったのでしょう。
秦の朝廷の方でも、始皇帝の場所が分からないでは困る事が多く発生し、盧生ら方士への風当たりも強くなっていた様に感じています。
盧生ら役に立たない方士への怒りが焚書坑儒の「坑儒」に繋がっており、始皇帝は多くの方士を処刑し中には儒者も含まれていました。
そもそも、水に入っても体が濡れないとか、火に入っても焼けない人間がいるはずもなく、そもそも真人になるのは不可能だったはずです。
盧生も人間は真人になる事は出来ないと考えており、最後は逃亡しようと考えていたのでしょう。
盧生の真人の話は、仙人の羨門高に出会う事も、不老不死の秘薬も手に入れる事が出来ず、苦し紛れの出まかせだった可能性があります。
盧生は始皇帝を監察し「そろそろ潮時」と考え逃亡した可能性もあります。
方士の盧生や侯生は逃亡しましたが、始皇帝自身は不老不死を諦める事が出来ず、徐福を海に旅立たせた話もあります。
ただし、徐福も始皇帝の元に帰還せず、始皇帝も真人になれず、紀元前210年の巡幸中に崩御しました。
尚、始皇帝は韓非子の教えに強く感銘していましたが、韓非子には「古来より不老不死になれた者はいない」と書かれており、始皇帝が本当に不老不死を目指したのかは分からない部分も多いです。