春秋戦国時代

侯生は逃げた方士

2023年9月18日

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宮下悠史

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名前侯生(こうせい)
生没年不明
主君始皇帝→在野

侯生は史記の始皇本紀に名前が登場する方士です。

始皇帝は方士を重用し不老不死を目指したわけですが、方士らは当然ながら不老不死の秘薬を作ったり、仙人を見つけ出す事が出来ませんでした。

こうした中で侯生と盧生は始皇帝の人柄や政治姿勢などを批判し逃亡しています。

侯生と盧生は逃亡しただけではなく、天下の人々に始皇帝の悪口を吹聴しました。

これに激怒した始皇帝が方士らを穴埋めにしてしまったわけです。

始皇帝は既に焚書を行っており、合わせて焚書坑儒と呼びます。

侯生は史記では盧生と共に始皇帝を誹謗し、逃亡する事しか登場しませんが、焚書坑儒を引き起こした張本人だとも言えそうです。

尚、始皇帝は盧生や侯生に高い給料を払いながらも、侯生らは悪口を吹聴し逃亡しており、最初から始皇帝を騙すつもりだったのではないか?とも考えられています。

ただし、侯生らは始皇帝が仕事熱心だった事は認めていた様であり、単なる暴君でもない事を世に表したとも言えそうです。

始皇帝の元から逃亡

始皇帝35年(紀元前212年)に方士の盧生は、始皇帝真人になる方法を教えました。

しかし、同年には盧生は侯生と共に次の様に述べています。

※史記 始皇本紀より

侯生・盧生「始皇帝の人間性は天性傲慢で無情であり事を専断する性質である。

諸侯の一人から天下を併合し、欲を叶えれば、古来より自分よりも優れた人はいないと、自惚れている。

刑罰を根本とし人を罪しているのである。

これにより獄吏が親任され博士は70人もいるが、数を揃えただけの存在に過ぎない。

丞相や大臣達を見ても、皆が皇帝の決裁した命令書を奉じて施行しているだけだ。

始皇帝は刑罰により民衆を脅すのを快楽とし、天下の者は罪を畏れ禄を憎んで忠誠を誓う者もいない。

この結果として始皇帝は過ちを悟らず、日々おごり高ぶり臣下は恐懼しひれ伏し、ただ欺き主上に受け入れられる事を願うばかりである。

秦の法律では方士は二つの方術を兼ねる事が許されず、霊験がなければ直ぐに処刑されてしまう。

それにも関わらず、天の星気をみる者は三百人も存在し、皆が立派な方士である。

しかし、始皇帝の機嫌を損ねる事を畏れ、媚びるばかりで諫言する者は一人もいない。

天下の事は大小となく、皆が始皇帝により決裁され奏上の文書を測りで測定する様になった。

1日に一石を分量とし、それだけの決裁が完了しなければ休む事もしない。

始皇帝が権勢を貪るのは、これほどなのに、未だに仙薬を見つけ出す事も出来ない」

侯生と盧生は不老不死の仙薬を見つける事が出来ておらず、逃亡しました。

侯生の名前は、ここで始めて出て来たのですが、侯生も盧生と同様に方士だったのでしょう。

方士は始皇帝に仙人や不老不死の仙薬を見つける様に命令されていましたが、成果を挙げる事が出来ずプレッシャーも大きかったはずです。

尚、侯生や盧生は始皇帝の人間性や政治姿勢を批判はしていますが、始皇帝が決められた分量の仕事を確実にこなすハードワーカーだった事は認めています。

侯生らの言葉から始皇帝が仕事熱心な真面目な人物だった事は明らかでしょう。

始皇帝の激怒

侯生と盧生が逃亡した話を聞くと、激怒したのが始皇帝です。

始皇帝は次の様に述べました。

始皇帝「儂は先に天下の書物を集め役に立たないものは、悉く焼き捨ててしまった(焚書)

そして、文学方術の士を多く用いて太平を興そうと努めたのである。

方士たちは錬金すれば奇薬が作れると言ったのに、韓人(侯生は韓出身だと考えられている)は逃亡し、消息を絶った。

さらに、徐市(徐福)には巨万の富を支払ったのに、仙薬を持ってくる事も出来ず、ただ彼らが金を貪っているとする声が耳に入るだけだ。

侯生や盧生らは手厚く褒美を与えていたのに、私を誹謗するだけではなく、天下に儂の不徳さを吹聴している。

これが不都合極まりない事である。

儂が咸陽にいる学者を調べさせたところ、妖言を述べ民衆を惑わしている者も多いと聞く」

始皇帝は御史に命じて学者を調べさせました。

始皇帝の言葉から盧生や侯生は逃亡するだけではなく、天下に始皇帝の悪逆さを宣伝するなど恩知らずな態度を取った事になるはずです。

侯生らは始皇帝から莫大な金を受け取っていたにも関わらず、人間性を疑問視されてもおかしくはないでしょう。

侯生や盧生が逃亡し、始皇帝が取り調べを行うと皆が罪を擦り付けない言い逃れしようとしました。

始皇帝は多くの方士を穴埋めとしてしまいました。

これが先に焚書を行っており、合わせて焚書坑儒と言います。

尚、坑儒と言えば大量の儒者が穴埋めにされたイメージがあるのかも知れませんが、実際には実績を挙げる事が出来ない方士が大半でした。

普通に考えて、現代でも無理な様な不老不死において成果を挙げる事はほぼ不可能だったと言えるでしょう。

因みに、この後に始皇帝の政策を批判した長男の扶蘇は北方の蒙恬の所に飛ばされました。

逃亡した盧生や侯生がこの後に、どの様な最後を迎えたのかは不明です。

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