名前 | 都市牛利(つしごり) |
生没年 | 不明 |
勢力 | 倭国 |
年表 | 239(238?)年 率善校尉に任命される |
都市牛利は正史三国志に登場する人物であり、倭国の副使となった人物です。
司馬懿が公孫淵を滅ぼすと、邪馬台国の卑弥呼はすかさず魏に朝貢しました。
この時に正使となったのが倭の大夫・難升米であり、副使となったのが都市牛利となります。
都市牛利が名前とも考えられますが、魏の朝廷が発行した詔を見ると「牛利」とも書かれており「都市」は官職名だったのではないか?とする説が存在します。
都市牛利に関しては分かっている事が少ないですが、倭の使節団の副使になる位ですから、邪馬台国の政府高官だった事は間違いないでしょう。
倭の使節
遼東公孫氏は四代に渡って続きましたが、公孫淵の代に司馬懿により滅ぼされました。
公孫淵が滅びると倭の国々は魏に朝貢する事が可能となります。
邪馬台国の卑弥呼は朝貢の使者を出しており、魏の皇帝である曹叡or曹芳が発行した詔に名前が見えます。
魏の詔によると、帯方郡の太守・劉夏が役人と兵士をつけて難升米と都市牛利を洛陽の都まで送って行った事が記録されています。
魏の皇帝は朝貢した難升米を率善中郎将に任命し、都市牛利に関しては、次の記述が存在します。
※正史三国志 東夷伝より
牛利を率善校尉とする。
都市牛利は率善校尉になっている事から、正使の難升米よりも一つ下の位を授与したという事なのでしょう。
尚、詔の中で「牛利」と呼んでいる事から「都市」が官職名だったと考えられているわけです。
魏では朝貢の返礼品を差し出しますが「難升米と牛里に託し」と書かれており、都市牛利は難升米と共に返礼品を持ち倭国に帰国したのでしょう。
卑弥呼は魏から親魏倭王に柵方され、返礼品も得た事で朝貢貿易も成功を収めたと言えるでしょう。
それを考えれば、難升米と都市牛利の外交は役目を果たしたと考えるべきです。。
ただし、これが都市牛利の名前が登場する最後の記録であり、この後に都市牛利がどうなったのかは不明です。
卑弥呼は朝貢を再び行いますが、この時に魏への使者となったのは伊声耆、掖邪狗、載斯烏越らであり、都市牛利の名前は登場しません。
都市牛利は市の役人だった!?
先の記述を見ると分かる様に、都市牛利は倭国の高官だったこと位しか分かっている事がありません。
しかし、都市牛利の「都市」が官職名であるならば、都市牛利の正体が分かってくる様にも感じています。
邪馬台国の卑弥呼は伊都国に一大卒を設置し諸国を監察していました。
伊都国は九州の入り口である末盧国が西にあり、東には倭国第三位の人口を誇る奴国が存在します。
当時の倭国は弁韓からの鉄の輸入などもあり、北九州の沿岸地域は商業都市として栄えたとも考えられています。
伊都国に設置された一大卒の役目の一つは、交易の管理とも考えられており、一大卒の責任者もしくは、高官が都市牛利だったとは考えられないでしょうか。
あくまでも想像になってしまいますが都市牛利の「都市」が官職名であるならば、市の管理者だったとしても、おかしくはないはずです。