名前 | 三内丸山遺跡 |
読み方 | さんないまるやまいせき |
時代 | 縄文時代 |
場所 | 青森県青森市大字三内字丸山 |
コメント | 縄文時代の最大集落であり、世界遺産に登録されている |
三内丸山遺跡は現在の青森県にあり、縄文時代では最大の集落として名が通っています。
三内丸山遺跡では栗の半栽培を行い定住を可能としました。
世界四大文明を見ると農耕を行い定住化する場合が大半であり、三内丸山遺跡の様な集落は極めて珍しいと言えます。
三内丸山遺跡は食糧自給が安定した事で、掘立柱建物などの芸術的なモニュメントを作成したと考えられています。
三内丸山遺跡は交易により新潟県糸魚川の翡翠や天然アスファルト、琥珀など様々なものを得ていた事も分かりました。
しかし、紀元前2200年頃に地球規模の寒冷化があり、三内丸山遺跡では栗の半栽培が出来なくなった事で、終焉を迎えたと考えられています。
ただし、日本列島では人口が増えなかった事で、食料を求めての熾烈な争いは起きず、三内丸山遺跡の住人は東北の各地に散っていったとされています。
日本列島には寒冷化があっても、まだまだ縄文人を受け入れるだけの余裕があったわけです。
今回は縄文時代で最大の集落である青森県の三内丸山遺跡を紹介します。
栗の半栽培に成功
繰り返しますが、縄文時代の日本最大の集落は、現時点では三内丸山遺跡となります。
三内丸山遺跡では500を超える竪穴式住居と、最盛期の人口は500人ほどいたともされています。
三内丸山遺跡の人口増の秘密が栗の半栽培にあると考えられています。
縄文時代のイメージと言えば、野兎やイノシシを追いかけたり、木の実を採取したりしているイメージが強いのではないでしょうか。
しかし、野兎や木の実を採取しているだけだと、三内丸山遺跡の人口が増えず定住する事は出来なかったはずです。
三内丸山遺跡の土壌の中の花粉を調べてみると、80パーセントほどが栗で占められている事が分かりました。
自然界では栗の花粉の割合はせいぜい5パーセントだと言われていますから、三内丸山遺跡の縄文人達が栗と関係が深かった事は確実でしょう。
現代人の感覚だと栗が栄養素のあるものに感じないかも知れません。
しかし、栗の栄養価は100グラムあたり164キロカロリーほどあり、精米の半分ほどの栄養価があります。
それを考えれば、栗は思ったよりもカロリーがあると感じた人が多い様に思います。
狩猟採集生活で考えると100ヘクタールで人間を一人しか養う事しか出来ませんが、栗の半栽培であれば同じ面積で60人を食べさせていく事が計算上は可能となるわけです。
養える人数が60倍にもなれば、三内丸山遺跡の人口は必然と増えると言えるでしょう。
ただし、縄文時代は離乳食が作れなかった事で、弥生時代の水田稲作の様に急激に人口が増える事はありませんでした。
縄文時代は最盛期でも日本列島全体で人口が26万人程度で、日本列島はスカスカだったと言えます。
尚、三内丸山遺跡の栗はあくまでも半栽培であり、水田稲作の様な立派な設備も手間も必要とはしませんでした。
食糧供給が安定した事で、縄文人は暇すぎて芸術的な土器や、様々なモニュメントなど趣味に時間を掛けていたとする説もあります。
三内丸山遺跡は食料が豊富で人口が増えないわけであり、ちょっとした食糧不足に陥る確率も極めて低かったと言えます。
自然の恵み
三内丸山遺跡の周りで狩りをしていた事も分かっており、大自然を享受して縄文人は生活していた事が分かっています。
森の恵みは縄文人の生活を助けたと言えるでしょう。
さらに、三内丸山遺跡では貝や魚など海の幸も加わり縄文人達は多彩な食品を食べていたとも考えられています。
縄文人は現代よりも多くの種類の食べ物を食べていた事は明らかでしょう。
縄文人たちはグルメであり、虫歯にも苦しんだなどの話もある程です。
縄文カレンダーを見れば、縄文人達が多彩な植物を摂取していた事が分かります。
三内丸山遺跡は海に近かった
現在の地形で三内丸山遺跡で魚や貝を捕っていたと聞くと、縄文人は歩いて遠くの海の方まで行っていたと思うかも知れません。
しかし、三内丸山遺跡が栄えた時代と、今では地形が違うわけです。
縄文時代には縄文海進があり、現在よりも5メートルほど海面が上がっていたと考えるべきでしょう。
海面が5メートル上昇すると、青森市などは海の中に消えてしまい三内丸山遺跡の付近まで海が来る事になります。
三内丸山遺跡は丘の上にあり、海とは近かったとわけです。
さらに、三内丸山遺跡の背後は森林であり、集落の栗の半栽培や海の幸、山の幸を摂取する事で必然と栄えたとも言えるでしょう。
縄文時代の気候なども考えると、三内丸山遺跡は絶妙な場所に位置しています。
大型の竪穴式住居があった
三内丸山遺跡の特徴ですが、500程の竪穴式住居が見つかっており、中には大型の竪穴式住居まで見つかっています。
大型の竪穴式住居は、縄文人達の集会場だったのではないか?とする説も存在しています。
大型の竪穴式住居は縄文時代の庄屋の家の様にも見えますが、何の為に使っていたのかはイマイチ分かっていません。
現代で考えれば大型の竪穴式住居は体育館の様にも見えなくもないですが、縄文時代に何らかのスポーツの様なものがあったのかは不明です。
ただし、縄文人達の狩りはスポーツの一環だったとみる事も出来ます。
三内丸山遺跡での暮らし
三内丸山遺跡にはお墓もあり、大人と子供でお墓が分けられている状態です。
縄文時代は平和だったとは言われていますが、乳児死亡率は高かったはずであり、何かしらの意味があり大人と子供のお墓を分けたのかも知れません。
三内丸山遺跡には盛土もあった事が分かっています。。
人間が暮らし出すとゴミは必ず出る事から、捨てている内に盛土になってしまったのでしょう。
盛土から出土するのは魚の骨とか貝殻が多いとする説もあります。
盛土などは、塵も積もれば山となり、時間を掛けて盛土になったとも考えられています。
三内丸山遺跡からは縄文人の生活臭も出ているわけです。
三内丸山遺跡には食物の貯蔵穴や土器を作る為の粘土採掘坑、道路跡や縄文土器、石器、装身具、土偶など様々なものが見つかっています。
三内丸山遺跡の跡を見ると、縄文時代の豊かさが分かる様な気がしてくる人は多いのではないでしょうか。
掘立柱建物
三内丸山遺跡の最大のモニュメントと言えば、掘立柱建物跡となるはずです。
大型の掘立柱建物跡は三内丸山遺跡のシンボルと言っても過言ではないでしょう。
重機が無い様な時代に、掘立柱建物の様な巨大な柱を立てるのは凄い事だと感じました。
三内丸山遺跡の人々が協力して掘立柱建物を建てたのでしょう。
三内丸山遺跡の掘立柱建物の柱は栗の木で出来ています。
栗の木を切るには伐採する為の石斧が必要であり、アオトラ石を材料にした石斧で木を伐採したとされています。
掘立柱建物には6本の巨大な柱が立っていますが、6本の柱が単独で立っており、1本が倒れると別の場所に、再び1本の柱を立てて六カ所の跡がついた可能性も指摘されています。
現在の三内丸山遺跡の掘立柱建物は本当に建物だったのか?と言えば、まだまだ分かっていない部分も多い訳です。
三内丸山遺跡の交易の謎
交易の基本
先に三内丸山遺跡では黒曜石や天然アスファルト、アオトラ石などを輸入していた事を解説しました。
交易の基本ですが、自分の集落での余剰分を他の集落の余剰分と交換する事で成り立ちます。
縄文人といえども資源をタダでくれるはずもなく、三内丸山遺跡で黒曜石や天然アスファルト、アオトラ石を輸入するとしたら、他の何かを輸出しなければいけません。
共通の貨幣が存在しない時代であれば、世界でみれば他集落との取引は物々交換が主流です。
現在、三内丸山遺跡で黒曜石などを手に入れる為に、何を輸出していたのかは分かってはいません。
他の共同体との互酬は成り立つのか
例として三内丸山遺跡は栗が多く取れたはずであり、栗を輸出し黒曜石などの資源を手に入れていたとします。
ただし、三内丸山遺跡で栗を輸出し、鉱物を手に入れるとなると、栗の収穫時期が問題となります。
栗は秋に収穫できるものであり、常温で保存する事が出来ません。
穀物とは違い栗は傷みやすいと言えます。
栗を輸出していたと考えた場合ですが、栗が採れる秋でしか、他集落との交易が出来なくなってしまうわけです。
しかし、秋しか黒曜石などの鉱物を手に出来ないとなれば、三内丸山遺跡では困った事になると考えられます。
一つの説として、三内丸山遺跡では秋に栗を届けるなどの条件を提示し、他集落から鉱物を得ていたのではないか?ともされています。
三内丸山遺跡の集落の信用で、他集落と取引をしたとも考えられているわけです。
これが本当であれば、縄文時代から日本列島では信用取引が行われていた事になります。
翡翠が貨幣の役割と果たしたのか
他にも、三内丸山遺跡では大量の翡翠が見つかっている事から、翡翠を貨幣の代わりとして取引をしていたのではないか?とも考えられています。
新潟県の糸魚川市にある長者ヶ原遺跡も三内丸山遺跡の半分くらいの規模ですが、縄文時代にしては大型の集落であり、翡翠や石斧の交易拠点だった事が分かっています。
長者ヶ原遺跡の翡翠を全国に輸出し、亀ヶ岡文化圏では翡翠をお金の様にお金の様に使っていたのではないか?とする説です。
亀ヶ岡文化圏は北海道の南部にある渡島半島から東北にかけて存在していました。
正史三国志の魏志韓伝に弁韓には倭人や周辺民族がやって来て、鉄をお金の様に使って取引をしていた話があり、亀ヶ岡文化圏では翡翠をお金として使う風習があったとも考えられています。
尚、亀ヶ岡遺跡から発掘された遮光器土偶は有名であり、日本人なら一度くらいは目にした事があると感じています。
ただし、亀ヶ岡文化圏で翡翠がお金の様に使われていたというのは、あくまでも想像であり真実かどうか不明です。
メソポタミア文明では、楔形文字で書かれた借金の粘土板が発見されており、貨幣の様なものが存在していた事が分かっています。
しかし、縄文時代には火焔式土器の様な芸術的な代物はあっても、文字が無く正確な部分は分からないという事です。
因みに、縄文時代では翡翠は三内丸山遺跡をはじめ多くの集落で重宝されましたが、奈良時代になると翡翠文化が衰退しています。
奈良時代は仏教を中心とした考えが強くなり、日本古来の神道と深く結びついていた翡翠は注目度が低下して行きました。
日本人から翡翠は忘れられてしまった様な存在になりますが、1938年に翡翠の産地が糸魚川で発見された事で話題になります。
糸魚川の翡翠に関しては、既に縄文時代に発見されており再発見だと言えるはずです。
縄文時代に既に糸魚川で翡翠が採れる事が分かっていて、1度は忘れられたにも関わらず再発見された事になります。
三内丸山遺跡の終焉
縄文時代最大の集落ともされている三内丸山遺跡ですが、紀元前2200年位になると姿を消してしまう事になります。
紀元前2200年ごろに地球規模の寒冷化により、三内丸山遺跡の気温が2度下がった事で、栗の栽培が出来なくなり集落が成り立たなくなったと考えられています。
たった2度の温度の低下が三内丸山遺跡に大打撃を与えました。
紀元前2200年は世界規模の寒冷化があり、混乱の時代へと突入する事になります。
最初にメソポタミアを統一したとされるアッカド帝国が紀元前2200年頃に弱体化し、メソポタミア地方にはグティ人も入り込んできて大混乱となり、群雄割拠となったわけです。
メソポタミアの群雄割拠を制したのがシュメール人のウル第三王朝となります。
ナイル川近辺の古代エジプトにおいてもエジプト第6王朝が崩壊し、混乱の時代であるエジプト第一中間期に入りました。
エジプトやメソポタミアでは農耕を行っており、人口が爆発的に増えていた事で戦いは激しさを増したと言えます。
穀物があると離乳食が作れてしまう事から、人口が飛躍的に増えてしまったと言えるでしょう。
三内丸山遺跡に関しては、栗栽培が出来なくなった時点で、縄文人達は南下し各地に散らばって行ったと考えられています。
三内丸山遺跡の様な絶好の場所があれば別ですが、縄文時代の環境だと、人々は散って生活した方が食料を得られやすくなります。
縄文時代は人口が増えなかった事で、メソポタミアやエジプトの様な大混乱は起きませんでした。
縄文時代は人口が少なかった事で、三内丸山遺跡が崩壊しても、現在の青森県から南下すれば、まだまだ人々を受け入れる余裕があったわけです。
三内丸山遺跡の人々は分散されお別れになってしまった部分もあるとは思いますが、これが縄文時代に争いが起きなかった原因だと言えます。
縄文時代は平和だったと言われていますが、縄文人達が平和を愛したわけではなく、運に恵まれた部分もあった事は間違いないでしょう。
縄文人達であっても、メソポタミアやエジプトの様に深刻な食糧不足が起きれば、少ない食料を巡って争っていたと考えられます。
それでも、三内丸山遺跡は紀元前2200年位に人々は集落を棄てて、各地に散らばり三内丸山遺跡の時代は終焉を迎えたわけです。
尚、青森県や秋田県には環状列石なるストーンサークルがありますが、三内丸山遺跡や各地の縄文人達が別の地域に散って行った時に、再開を約束した場所ではないか?とする説があります。