古代日本

倭人の意味や風習、暮らしを解説

2023年12月1日

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宮下悠史

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名前倭人(わじん)
場所日本列島、朝鮮半島南部
コメント日本人を指す

倭人は倭族であり、日本人の先祖でもあります。

正確にいえば朝鮮半島の南部にも倭人はいました。

倭人という言葉は、中華王朝が付けた名前であり、当時の日本人が自分達の事を倭人だと認識していたのかは不明です。

日本列島には縄文人がいましたが、縄文時代が終わると弥生人と呼ばれる様になり、弥生人の人々を海外では倭人と呼んだ事になります。

倭人が最初に登場するのが論衡であり、周の成王に薬草を届けた話しがあります。

しかし、倭人に対する詳しい描写があるのは、魏志倭人伝の記述による所が大きいと言えます。

尚、倭という言葉は蔑称だともされていますが、世界の国々を見ても国外の事を蔑視する傾向にあり、中国だけが特別に酷いわけではありません。

倭人の名前の由来

一人称から倭の名が誕生!?

倭人の名称の由来に関しては、倭人達が自分達の事を「私」や「我(われ)」「吾輩」「儂」などと呼んでいた事で名付けられたとも考えられています。

日本語では一人称で「わ」から始まる事が多いので「倭人」と呼ばれる様になったともされているわけです。

中国の人々や三韓の人々が日本人と話をした時に、最初に「わ」を使った事で、倭人となったとも考えられています。

倭は差別用語ではなかった

倭は一般的には中国人が日本人を蔑視した差別用語だと考えられていました。

しかし、別説として山海経や漢書では倭の意味や用法は儒教の「君子国」を表現したものだと言います。

この説だと倭の意味は「孔子が語った様な天性の道理や礼に従順な民がいる場所」であり、決して倭の意味は差別用語ではなく「儒教の教えに従順な民族がいる場所」となります。

倭の意味が儒教の教えに従順だった説は本居宣長も支持している状態です。

ただし、周辺民族に対し蔑称で呼んでいる中華思想が強い中国が、遠く離れた地に住む民を讃える様な事を言うのか?という疑問も残ります。

それでも、魏志倭人伝を見ると倭人に関する好意的な記述が目立ち、陳寿の頭の中には倭人は蔑称ではなく「儒教に従順な民」とする考えが頭の中にあったのかも知れません。

続日本史にも日本人と唐人との会話で唐の人が「海の東に大倭があり君子国だと聞いている。人民は豊楽で礼儀があり、身なりも清らかで聞いていた通りだった」と述べた話があります。

続日本史の記述が本当であれば、中国では倭人を君子国だと認識しており、倭は決して差別用語ではなかった事になります。

尚、倭人は日本列島の倭人の他にも、中国の南東にも「倭」呼ばれている人々がいたのではないか?とする説も存在しています。

倭人の体つきを示すとする説

倭の意味が日本人の体型と関係しているのではないか?とする説もあります。

当時の日本人の体型が背中が丸く曲がっており低身長であり、猫背で背が低い体型を意味する「倭」という文字をつけた説です。

ただし、中国と最も交流したのは対馬国や壱岐国(一支国)を除けば北部九州となるでしょう。

北九州では身長が男性の身長が普通に160センチを超えており、決して身長が低いとは感じません。

それでも、魏志倭人伝には小人の国である侏儒国の記録もあります。

最近では「倭」の意味は日本人の体型を示すとする説は支持が広がっている現状もあります。

倭国の遠さを意味する説

倭国は中国から遠く離れた地にあると考えられてきました。

魏志倭人伝を見ると親魏大月氏王に冊封されたクシャーナ朝よりも、倭国の方が距離が遠い事になっています。

倭という漢字には「はるか遠い場所」という意味があり、倭国が遠い場所にある事から「倭」と名付けた説もあります。

倭の漢字の意味や名付けられた理由は、色々とありますが、未だにどれが正解なのかははっきりとしない部分もあります。

魏志倭人伝以前の倭人の記録

倭人と言うのは、日本で言う縄文人がベースになっています。

過去には縄文人と弥生人は別の民族だと言う説もありましたが、現在では縄文人と弥生人は同一の種族だという事が分かってきました。

縄文人は海洋民族でもあり、丸木舟を使い日本列島の周りをぐるぐると回っていた事も分かっています。

縄文時代に縄文人が朝鮮半島に上陸し、倭人の集落を形成した事も分かりました。

論衡によれば、紀元前1040年頃に周王に薬草を献上した記述があります。

この記述が何処まで本当なのかは不明ですが、本当であれば倭人が周の成王に薬草を届けた事になります。

しかし、西周王朝の首都は中国の西方にある鎬京であり、倭国からはかなり距離がある事で、本当に倭人が鎬京まで行ったのか?という疑問もあります。

ただし、ここでいう倭人は「儒教の道理に従順な人」を指すとする説があり、日本列島の倭人が、周王に薬草を届けたわけではないとする説もある様です。

倭の意味が儒教の道理と絡ませてあるのであれば、決して倭は差別用語ではなかった事になります

後漢書によれば紀元前57年に奴国が光武帝に朝貢し、金印を授かった記録もあります。

107年には後漢の安帝に倭王帥升が朝貢を行いました。

魏志倭人伝よりも前の資料だと、倭人の大まかな記録しかなく、倭人の風習などは記録がない状態です。

倭人は蔑称なのか

倭人と聞くと蔑称だとか、差別だと感じる人も多いはずです。

中国では周辺の異民族に対し、鮮卑など卑しい漢字を当てはめて呼ぶのが普通に行われています。

倭も蔑称だと考えられていますが、日本でも南蛮と欧州の勢力を蔑称で呼んでいた事は有名です。

世界を見るとアマゾン川の流域でで原始的な暮らしをしているとされているヤノマミ族であっても、外の民族の事を「ナプ」と呼び蔑視しています。

差別は階級社会が生んだとも言われていますが、実際には人間は自分達の共同体の外の者に対し蔑称をつけてしまう傾向にあるのでしょう。

それを考えると、中華思想で中国が日本に対し「倭」という蔑称を与えたとしても何の不思議もないわけです。

倭人が住んでいる場所

朝鮮半島南部

魏志倭人伝の記述で朝鮮半島の三韓の南に倭人がいた記述があります。

縄文時代に倭人が丸木舟で朝鮮半島に上陸していた事から、朝鮮半島の南部に倭人が住んでいたのでしょう。

魏志倭人伝に登場する狗邪韓国や加羅、任那と呼ばれる地域には倭人が住んでいた事が分かっています。

朝鮮半島の南部からは古墳や縄文土器なども見つかっています。

朝鮮半島が百済、高句麗、新羅の時代になっても、倭人は朝鮮半島南部に存在しました。

しかし、西暦530年代には南加羅国の重要拠点が新羅に奪われ、西暦562年には「遂に任那は滅んだ」と日本書紀に記述されています。

その後も日本は朝鮮半島の奪還を企てますが、天智天皇の時代に起きた白村江の戦いで唐・新羅連合軍に完敗した事で、朝鮮半島復興の夢は絶たれたと言えるでしょう。

九州から船で朝鮮半島に行かねばならず、大和王権であっても朝鮮半島の倭人を救うのは、当時の技術では至難の業だったはずです。

尚、東アジアでは男性が持つD1a2というハプログループが存在しています。

D1a2を持つのは世界的にも少数ですが、日本人の3割ほどが持つ遺伝子でもあります。

D1a2はモンゴル、中国、チベットでは見られませんが、韓国の男性の1パーセントほどが持っている事が分かっています。

韓国人男性が僅かに持つD1a2の遺伝子こそが、朝鮮半島に倭人がいた証拠ではないかとも考えられています。

邪馬台国の謎は入れ墨で解ける

倭人の入れ墨

魏志倭人伝では邪馬台国への場所に関する記述があり、その後に北方の国々が紹介され狗奴国に関する記述が存在します。

その後に、倭人の入れ墨に対する記述が記載されています。

※魏志倭人伝より

倭人の男子は誰もが顔や体に入れ墨をしている。

これが黥面文身と呼ばれています。

現代では信じられないかも知れませんが、倭人の男性は皆が顔に入れ墨をしていたと言うのです。

中国で入れ墨を考えた場合に、黥布が有名であり、罪を犯し刑罰を受けた者が入れ墨を顔に入れられたりするのが普通だと言えます。

それに対し倭人は自分から顔に入れ墨をしている事を知り、正史三国志の著者である陳寿は、倭人の入れ墨の風習に驚いて記述したのではないかとも考えられています。

さらに、倭の使者が中国に来訪する時は、皆が自分の事を大夫と称していると記録されています。

中国人にとって馴染みがない顔に入れ墨を入れた倭人が大夫と称してやってきたら、インパクトはあった様に感じました。

尚、卑弥呼が派遣した難升米も大夫だったとする記述があり、自ら称していたのかも知れません。

倭の入れ墨は夏王朝と関係があった!?

夏の少康の子が会稽に封じられると髪を切り身体に入れ墨を入れて、蛟(みずち)や龍の害を避けたとあります。

倭の水人達はよく水に潜り魚や貝を捕っているが、身体に入れ墨をするのは同様に大きな魚や水上で生活する魚を追い払う為であり、それが後に段々と飾りとなったと記録されています。

陳寿は倭人の風習と会稽の封じられた夏の少康を合わせて説明していますが、夏王朝は二里頭遺跡だとも言われていますが、殷後期の甲骨文にも書かれておらず存在は不明です。

さらに言えば、二里頭文化の王朝が会稽まで勢力を拡げた事は確認する事が出来ず、夏王朝と倭人の風習は大して関係がないと考えた方が無難に感じています。

当時は倭の位置が会稽の東にあるのではないか?と普通に考えられていたともされており、会稽は夏王朝の始祖である禹の後裔とされる越王勾践の本拠地でもありました。

こうした事情から夏王朝と倭人が関係づけられたのではないか?ともされています。

さらに、魏略では「倭人が呉の太伯の後裔である」とする伝承を述べたとする記録もありますが、この部分は陳寿は「事実ではない」と考えたのか、正史三国志の本文では書かれていません。

呉の太伯は弟の季歴に位を譲る為に、周を去り入れ墨を入れた人物でもあります。

尚、倭人が漁業を営んだとありますが、日本列島では牧畜が行われておらず、タンパク質などの栄養源は魚介類から摂取していた事が分かっています。

それらを考慮すれば、倭人が魚を取っていたのは本当の事でしょう。

身分によって入れ墨が変わる

倭人の入れ墨は国ごとに異なっていたと記録されており、国によって模様が違ったとみる事が出来ます。

入れ墨が左に入っていたり右に入っていたり、大きかったり小さかったりしたとあります。

さらに、入れ墨により身分の区別をしていたとあり、入れ墨で尊卑の差があった事が分かります。

日本の各地で黥面土偶や黥面絵画が見つかっており、倭人が顔に入れ墨を入れていたというのは本当の事なのでしょう。

尚、倭人は入れ墨で尊卑の差があったとは記録されていますが、どの様な入れ墨が身分が高かったなどは不明です。

当時の倭人社会では入れ墨を見れば出身地や尊卑なども一目両全で分かった事になります。

ただし、内陸で暮らす人々は入れ墨が入っていなかったのではないか?とする説もあります。

入れ墨の記述の最後に、倭までの道のりを計ってみるに、会稽や東治の東方に位置するのではないか?と陳寿はしていますが、実際の距離はズレていると言ってよいでしょう。

因みに、後漢書では会稽東冶の東と書かれており、さらに580キロほど南の地点となっております。

後ほど解説しますが、当時の中国の人々が倭国は中国の東南に位置し、儒教の教えも加わり倭人の入れ墨の話になったとする説もあります。

黥面文身で分かる邪馬台国

邪馬台国で言えば九州説と畿内説で未だに論争が行われている状態です。

先に紹介した様に、倭人は黥面文身と呼ばれ顔や体に入れ墨をしていた事が分かっています。

九州地方や中部地方などで実際に黥面土偶や黥面絵画が発見されており、倭人が入れ墨をしていたのは事実だと考えるのが妥当です。

しかし、近畿地方では黥面土偶や黥面絵画が発見されてはいません。

勿論、大和王権の本拠地である大和盆地にも黥面土偶や黥面絵画が発見されておらず、倭人の風習を考えれば近畿に邪馬台国があったと言うのは無理があります。

邪馬台国東遷説を述べる方もいますが、邪馬台国が東から西に移ったのであれば、黥面文身の文化も大和盆地で発見されねばおかしい事になります。

魏志倭人伝の黥面文身の記述を考慮すると、邪馬台国東遷説も否定される事になるでしょう。

記紀の入れ墨の表記

古事記には入れ墨の描写が無く、日本書紀には入れ墨の描写が1カ所だけ存在します。

神武東征が行われ神武天皇が大和の橿原で即位しました。

この後に、神武天皇は地元の有力者の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命に挨拶に行きますが、この時に大久米命が神武天皇の気持を伝える為に媛蹈鞴五十鈴媛命に近づきました。

媛蹈鞴五十鈴媛命は大久米命の顔に入れ墨が入っている事に気が付き、驚いた話があります。

倭人は入れ墨の文化があったわけですが、大和には入れ墨の文化が無く媛蹈鞴五十鈴媛命が驚いたのではないか?とも考えられています。

大和王権の前身の勢力は瓊瓊杵尊天孫降臨して以来、九州の日向にいた事になっています。

九州の倭人は入れ墨の文化があった様ではありますが、日向からは黥面土偶や黥面絵画が出土されておらず、黥面文身の文化が無かったのでしょう。

倭人の入れ墨の考えに従えば、邪馬台国と大和王権は明らかに別の王朝となります。

倭人は入れ墨をしてはいなかった説

魏志倭人伝には倭人が入れ墨をしていた記述がありますが、実際には倭人は入れ墨をしてはいなかったのではないか?とする説が存在します。

儒教の経典である礼記には、次の記述が存在します。

※礼記(抜粋)

※東方に住んでいる者を夷と呼び髪を結わず身体に入れ墨をしている。

南方に住んでいる者を蛮と呼び額に入れ墨をして足を交差して眠る。

上記の記述を見ると分かる様に礼記では東にいる民族は身体に入れ墨をしており、南方の者は額に入れ墨をしていると記載されています。

魏志韓伝には馬韓、弁韓、辰韓の者が身体に入れ墨を入れていた様な記述もあり、東夷に数えられる韓族は儒教の考えに従い入れ墨があったとしたわけです。

当時の中国では日本の位置が東南にあったとも考えられており「倭人が体と顔に入れ墨があるべき」とする想いが強くあり、陳寿は倭人は顔や体に入れ墨があったと記述したとも考えられています。

倭人の風習

倭人の性格

倭人の風習を知る上で、魏志倭人伝に記載されているのが、倭人は淫乱を知らないと書かれています。

中国では殷の紂王に代表される酒池肉林なども言われますが、倭人は慎み深い性格だと述べた事にもなります。

ただし、現在の日本人の全員が淫乱を知らないわけではなく、全体的にみれば慎ましやかだったという事なのでしょう。

倭人の見た目

魏志倭人伝には倭人の姿も描かれており、倭人は冠をつけず木綿で頭を縛り髷(まげ)を作るとあります。

さらに、倭人の着物は横に幅広いきれを結び合わせるだけで、縫い合わせたりする事は殆どないと記録されています。

倭人の女性の髪形は整ってはおらず、髪の毛の一部だけは束ねていたとあります。

着物を着るにしても、シンプルなもので中央に穴を開けて首を通してきたとあります。

我々がイメージする弥生人の格好をしていたと言えるでしょう。

倭人は稲やカラムシを栽培し、養殖をしたとあります。

それらを糸に紡ぎ目が細かく上質な絹織物を作っていたと言います。

日本書紀では秦氏が養蚕と機織りの技術を伝えた事になっていますが、魏志倭人伝の記述を見る限りでは秦氏よりも先に養蚕などの技術があったと言えそうです。

「目が細かい」とする記述がある事から、日本でも質が高い織物を作るだけの技術力があったのでしょう。

倭国では弁韓から鉄を輸入していた話がありますが、逆に倭国から弁韓などには米や織物を輸出していたと考えられています。

尚、倭人は朱丹を塗るとし、これが中国の白粉の様なものだとあり、日本人は当時から化粧の様な事はしていたと考えられます。

ただし、土偶などにも朱丹らしきものが塗られたかの様なものがあります。

それを考えれば倭人が朱丹を愛用していたとも考えられますが、何を理由に朱丹を体や顔に塗っていたのかは不明です。

家畜がいない

魏志倭人伝の記述だと倭国には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)がいなかったとあります。

3世紀の日本には凶暴な動物もおらず、家畜も存在しなかったという事なのでしょう。

ただし、現在の研究では小数ではありますが、倭国にも大型の家畜がいた事が分かっています。

ユーラシア大陸では当たり前の様に牧畜が行われており、人間が動物を支配する環境が自然と出来上がりました。

しかし、倭人は牧畜が殆どなく海産物から栄養源を手に入れた事で、宦官の様な制度が出来なかったと考えられています。

宦官は家畜への去勢技術を人間に導入したものとなっています。

奴婢の制度が出来ても長く続かなかったのは、倭人に家畜を支配すると言う風習が無かった事が原因ではないかとされているわけです。

倭人の武器

魏志倭人伝によると倭人は、矛、盾、木の弓を用いて武器としたとあります。

倭人が使う木製の弓は下が短く上が長かったとあり、大陸の人から見れば独特な弓に見えたのでしょう。

倭人の矢は竹で出来ており、鉄や骨を鏃に使ったとあります。

倭国に馬が本格的に導入されたのは三韓征伐などで朝鮮と戦った五世紀以降ではないか?とされています。

邪馬台国の時代には日本には騎馬隊がおらず、倭人は歩兵を組織して戦っていたはずです。

尚、魏志倭人伝の矛、盾、木の弓を用いて武器とした記述から、当時の倭国は銅矛圏の話だとする説もあります。

近畿の方では銅鐸が盛んに作られましたが、魏志倭人伝には銅鐸の記述はありません。

倭国の気候

倭の地に関しては、温暖で冬でも夏でも生野菜が食べる事が出来たとあります。

さらに、誰もが裸足だったとあり、当時の倭国は非常に住みやすい地域だったのでしょう。

魏志倭人伝の記述だと、倭人は織物を作る事が出来たとあり、靴下や草履の様なものを作る事が可能だったはずです。

それにも関わらず、裸足だと言うのは、当時の日本が温暖で暮らしやすかったと読み解く事が出来ます。

倭国大乱が勃発した時は、気候の寒冷化に苦しんだかも知れませんが、卑弥呼が魏に朝貢した頃には、温暖な気候に戻っていたのかも知れません。

別の見方をすれば縄文時代の様な派手な土器を作ってはおらず、生活がシンプルなのは、戦乱により質素で実用的な物が好まれた様にも感じました。

尚、日本文明が黄河文明に遅れをとってしまったのは、気候が温暖で食料に恵まれた事で技術力が発展しなかったのが原因とする説があります。

倭人は温暖な気候で食料に困らず、雑な農業でも栽培が出来てしまった為に、文明が発達しなかったとも考えられています。

日本で縄文時代が長く続いてしまったのは、気候が温暖で暮らしやすかった事が原因の一つに挙げられるわけです。

魏志倭人伝には倭国は海南島の儋耳や朱崖の風俗と共通する部分が多いとも述べており、倭人の生活は温暖で魚介類を採取するなど南方の海洋民族に近しいと陳寿は考えていたのでしょう。

倭人の家

倭人はちゃんとした家に住んでいたと言います。

さらに、父母兄弟で寝室や居間を別にしていたとあり、今の日本に近いものがあったのでしょう。

当時の日本の家には部屋が幾つもあったと考える事も出来ます。

倭人は決して、小さな住居の中で家族全員で、雑魚寝していたわけではないとも見て取れます。

ただし、この時代の日本はまだ竪穴式住居があり、日本式の竪穴式住居を中国人が見た結果として、そうなったのかも知れません。

高句麗が「山や谷に沿ってしまいとした」記述がある事や韓族が「一家で住み長幼、男女の別が無い」と書かれたのとは対照的です。

倭人の飲食

倭人は飲食には高坏を使ったとあり、手づかみで食べていたとあります。

現代の日本では箸が普及しており、一部の料理を除き手で食べる事はありませんが、当時の日本人は手で食べていた事になります。

穀物なども手で食べていた可能性があるはずです。

魏志倭人伝の倭人が高坏を使った記録ですが、倭国だけではなく東夷全般に拡がっていた事が分かっています。

ただし、東夷の中で最も秩序がないと陳寿に批判された挹婁は高坏を食事で使ってはいません。

挹婁が高坏を使わなかった事を考慮すると、粛慎国の後裔である挹婁よりも倭国の方が中国の礼を継承していると言えます。

倭人の葬式

魏志倭人伝によれば、倭人は亡くなると棺桶に収められたとあります。

棺桶というのは甕棺と考えるべきでしょう。

ただし、倭人は棺に収める事はせず、土を盛って塚を作ったとあります。

倭人が亡くなってから、埋葬するまでの十日間は肉を食べず、喪主は哭泣し他の者は歌舞を行い酒を飲んだとあります。

倭人の葬式では喪主は涙を見せますが、他の者は歌舞を行い酒を飲んだと言うのは、現在でいう所のお通夜に近いと感じました。

酒を飲み賑やかにするのは、故人の弔いになると考える地方もあり、こうした風習の元になっている可能性もあるはずです。

尚、人が亡くなってから、埋葬するまでの期間を「もがり」と言いますが、昭和天皇の時代でも皇室ではもがりを行っています。

埋葬が終わると家中の者が水に入り、身体を洗い、その様子は中国の沐浴に似ていたとあります。

日本神話イザナギ黄泉の国から帰還した後に、を行っており、似たような感じで日本人も埋葬が終わると穢れを払う意味で、禊を行ったのかも知れません。

倭の特産物

魏志倭人伝では倭の特産物として真珠や青玉を産出するとあります。

木材としては楠、杼(とち)・豫樟(くすのき)・(ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投(すぎ)・橿(かし)・烏号(やまぐわ)・楓香(かえで)があり、竹には、篠(ささ)・(やたけ)・排支(かづらだけ)があり、また薑(しょうが)・橘(たちばな)・椒(さんしょ)・襄荷(みょうが)などが生えているとあります。

しかし、魏志倭人伝には、上記したものが倭人は美味だという事を知らないと記述されています。

それでも、多くの木や竹が生えていて倭国は自然豊かだと考える事が出来るでしょう。

魏志倭人伝に自然に関する描写も記述される事から、魏志倭人伝は博物誌だとか現地調査団の様な役目も魏の使者は担っていたのではないか?とも考えられています。

日本列島では縄文時代から豊かな自然に覆われていましたが、弥生時代になっても継続されていたとみる事が出来ます。

魏志倭人伝の末盧国の記述にも草木が繁茂している記述があり、砂漠化とは無縁の地域だった事が分かります。

さらに、魏志韓伝には「特別な珍宝は産出せず、禽獣も草木もほぼ中国と同じである」と記載しました。

特産物という点で、三韓よりも倭国の方を高く評価した事になるはずです。

日本書紀にスサノオ高天原を追放されると、五十猛命と共に新羅に舞い降りますが「ここにはいたくない」と述べ、出雲に移動した話があります。

日本神話を見ても三韓は「特産物がない」と判断された可能性もあり、倭国とは対照的です。

倭人は占い好き

倭人の風習として、特別な事が起きたり旅に出る場合は骨を焼いて卜による占いをし吉凶を判断しました。

倭人は亀を使用した占いをしていた様で、亀卜の前には占う内容を告げたとあります。

占いの内容を告げる言葉は中国の命亀のやり方を同じだとあります。

倭人は焼いた亀の割れ目を見て吉凶を判断しました。

亀卜は中国の殷の時代に盛んに行われた事も分かっており、歴史の授業で甲骨文として習った人も多い事でしょう。

亀卜が日本でも行われていたと魏志倭人伝に記述されています。

尚、魏志倭人伝には持衰と呼ばれるものがあり、三韓への旅などで上手くいけば持衰になった者に褒賞し、失敗すれば持衰が殺害されるなどがあります。

持衰も倭国の占いの一つだとみる事も出来るはずです。

因みに、卑弥呼鬼道を行った記述があり、占いの達人だったと見る事も出来ます。

目上の人に拍手をする倭人

倭人は集会で集まると父子の区別がない立ち振る舞いだったとあります。

倭の人々は生まれつき酒が好きだったと、魏志倭人伝に記録されています。

倭国では身分の高い人や敬うべき人にあっても拍手をするだけだったとあります。

中国では目上の人には跪いて頭を下げるのが普通であり、倭人の拍手をする風習を奇異に感じたのかも知れません。

ただし、倭人が全く拍手だけをして跪かなかったわけではなく、時と場合によっては両手を地に付けていた話があります。

尚、現在でも神社などで参拝を行う時に、拍手をして拝礼したりもします。

魏志倭人伝の倭人が目上の人に拍手する風習と現在の神社参拝の時に拍手をする風習は関係があるのかも知れません。

倭人の土下座

倭人は拍手をするだけの記述もありますが、下っ端の者が道で身分の高い者に会うと、後ずさりしてから草の中に入りしたとあります。

目上の者に倭人がものを伝える時には、うずくまったり跪き両手を地について、目上の者に対する恭順の意を示したと記録されています。

この記述から分かるのが、現在でいう土下座に近いものが弥生時代にはあったという事なのでしょう。

それと同時に倭国では厳しい身分制度があったとも考えられます。

答える時には「あい」と述べたといい中国での「分かりました」というのと、よく似ているとあります。

魏の役人の耳には「あい」と聞こえた様ではありますが、実際には倭人が「はい」と言ったのではないかと感じました。

魏志韓伝によると韓族の中の楽浪郡や帯方郡に近いものは礼をわきまえているが、遠くなると囚徒や奴婢が集まっている状態だと記録されています。

魏志倭人伝を見ると倭国は三韓を飛び越えた地にあるにも関わらず、中国の礼儀を継承した様な高い評価をされている事が分かるはずです。

天皇の長寿の秘密が解ける!?

魏志倭人伝によると、倭人は長寿であり百歳や八十歳、九十歳の者もいるとあります。

魏志倭人伝を普通に読めば倭人は、かなりの長生きだった事が分かるはずです。

しかし、正史三国志の裴松之は魏略の注釈を入れており、次の記述を残しました。

※魏略より

倭人は正月を年の初めとする事や四つの季節がある事を知らない。

単に春の耕作と秋の収穫を目安として年を数えている。

裴松之が残した魏略の記述を見ると、倭人は年の数え方を分かっていなかった事で、長寿の人物が多かった事になります。

耕作と収穫を目安にして年を数えていた事から、倭国では一年を二年で数える春秋歴を使っていたのではないか?とも考えられています。

春秋歴を使ったのであれば、必然と倭人は長寿となってしまうわけです。

倭人の年齢の話は、魏の役人が実際に倭人に聞いてみていわれた事をそのまま記録したとも考える事が出来ます。

尚、古事記や日本書紀を見ると神武天皇、欠史八代の天皇、崇神天皇、景行天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇など100歳超えが目立ちます。

日本書紀の記述を見ると、初代の神武天皇から仁徳天皇までの16代のうち12人が100歳超えで崩御する異常事態となっています。

古代天皇の長寿の謎が「倭人は年の数え方を知らない」とする裴松之の残した記述であり、倭人の独特な数え方により天皇が長寿だったとも考えられています。

初期の天皇の長寿の謎は魏志倭人伝にある裴松之の注釈により謎が解ける可能性もあるという事です。

因みに、陳寿が倭人を長寿だとしたのは、中国の東方では神仙思想が流行っていた話と結び付けたからではないか?とする説があります。

中国では始皇帝徐福に命じて東の海を探索させた事は有名です。

こうした事情もあり東の海に浮かぶ日本列島に住む倭人は「長寿だった」とする先入観が陳寿の頭の中にあり、倭人の寿命が長い事と繋がった可能性もあります。

ただし、倭人が中国と違っている暦を使っているのは、倭人の文化レベルの低さを現わしているとする見解もあります。

倭人は一夫多妻だった!?

倭人の風習として国々の大人たちは4,5人の妻がいたとあります。

さらに、下っ端の者でも2,3人の妻がいたと記録されています。

一夫多妻と言えばイスラムが有名ですが、倭人も一夫多妻だった事が魏志倭人伝に記録されています。

世界の国々を見ると一夫多妻制を取る場合は、夫が戦争で亡くなってしまい未亡人となった女性の救済策としての側面もあります。

倭国の場合も倭国大乱があり、決して争いのない地域だったわけではなく、こうした理由から一夫多妻制を布いた可能性も残っている様には感じました。

倭国の一夫多妻には別説もあり「周礼」には各地の男女比を示す部分があり、揚州は二人の男性に五人の女性という記述があります。

これを見ると周礼には男女比が2対5となり、当時の中国の世界では揚州の東の方に倭人が住んでいたとも考えられていました。

中華思想では中心から遠くなるにつれて女性比率が高くなるともされていたわけです。

中国の最北端である幽州などは男女比が1対3で女性の人数が多く、河内では5人の男性に3人の女性となっています。

倭人が5人の妻を持ったのは、魏の役人が現地人に聞いた可能性もありますが、中華思想の影響から歪が出来た結果として、倭国の一夫多妻制が記録されたとも考えられています。

それでも、魏の役人が倭国に行った時に、たまたま女性を多く見かけて記録した可能性も残っています。

尚、東夷伝の中には東沃沮の女人国の事が記録されており、「女性ばかりで男性がいない」など、絶対にありえない様な事も書かれています。

倭人女性の性格

魏志倭人伝には、夫人たちは貞節をしっかりと守った記述もあり、嫉妬しないなどの事も書かれれています。

東夷伝の高句麗の記述では「風俗は淫乱」だと書かれており、倭人は慎み深かったと言いたかったのでしょう。

因みに、東夷伝の扶余の条では男女が密通したり、女性が嫉妬深かったら死刑にされるなど、女性の嫉妬や風紀の乱れを咎める様な記述があります。

中国で嫉妬が問題視されるのは、儒教の教えで子孫を残し家の存続を重視する考えにあると言えます。

正史三国志の袁紹伝に袁紹が亡くなると、妻の劉氏は袁紹の五人の妾の顔を傷つけ殺害した話があります。

劉氏は袁紹の妾達に嫉妬した結果として、残虐な行為を行ったとされているわけです。

さらに、劉氏は三男の袁尚を寵愛した事で、袁譚との家督争いも勃発しており、正史三国志では汝南袁氏の内紛を批判しました。

それらを考えれば、陳寿が倭人の女性は嫉妬しないとしたのは、高い評価を与えた事にも繋がります。

倭人の刑罰

魏志倭人伝によると、倭人は盗みを行う事もなく、訴訟になる事は少ないとあります。

この記述を見る限りだと倭国は極めて治安がよかったと読み取る事が出来ます。

尚、魏志倭人伝には倭人は宗族間の関係や尊卑に関しては序列があったと記載されています。

さらに、上のものの言いつけはよく守られるとあり、上下関係がしっかりしていた事を伺いしる事が出来ます。

犯罪を犯した者は刑罰の軽いもので妻子が没収となり、重い場合は一族が根絶やしになると書かれています。

中国では三族が皆殺しにされた話もあり、それに比べると倭国の刑罰は厳しくなかったとみる事も出来るはずです。

因みに、隋書倭国伝では倭人は熱湯の中に手を入れて火傷したら有罪となり、火傷しなかったら無罪とする神明裁判が行われていた記述があります。

実際に日本書記や古事記では応神天皇、允恭天皇、継体天皇の時代の近江毛野が盟神探湯と呼ばれる熱湯に手を入れる神明裁判を行っていた話が掲載されています。

他にも、隋書倭国伝には釜の中に蛇を置き、手を入れた時に噛まれたら有罪とする方法も行われていたとあります。

魏志倭人伝には書かれていませんが、古代日本では非科学的な方法の神明裁判があり、実際に刑罰も行われていたのでしょう。

倭人の租税

倭国では租税や賦役の徴収が行われ、租税を納める倉庫が設置されていたとあります。

国々には市場があり、特産物の売買が行われていました。

倭国内では交易も活発に行われていたのでしょう。

福岡平野を擁する奴国などは交易で栄えた事が確実視されている状態です。

使大倭が命じられて交易を監視していたとも記録されています。

使大倭に関しては、身分の高い倭人と解釈される場合が多いです。

しかし、使大倭は交易の監視を命じられており重要な役職名である事から、使大倭は官職名だったのではないか?ともされています。

伊都国一大卒ですが、倭国内での交易は比較的自由にやらせていた様ではありますが、魏との朝貢貿易に関しては邪馬台国が一大卒を設置し独占していたとも考えられています。

倭国が好意的に描かれた理由

これまでの記述を見て魏志倭人伝には、倭国が極めて好意的に描かれている事が分かるはずです。

他の記事でも紹介しましたが、正史三国志を書いた陳寿は西晋の役人であり、西晋の司馬懿の功績を高く見せようとして倭人を良心的に書いたとする説があります。

司馬懿が遼東公孫氏を滅ぼすと邪馬台国卑弥呼が直ぐに朝貢してきました。

倭国を朝貢させたのは司馬懿の手柄です。

司馬懿のライバルは曹真の子である曹爽でしたが、曹真にはクシャーナ朝を朝貢させ魏の曹叡親魏大月氏王に冊封した手柄があります。

司馬懿は西晋の祖とも言うべき人物であり、曹真の功績よりも上とする為に、倭国及び倭人を高く評価したとする説があります。

下記がクシャーナ朝と倭国の戦力比です。

国名大月氏国(クシャーナ朝)倭国
戸数10万15万
人口40万75万
精鋭10万??
距離16370里17000里

司馬懿の方が人口も多く遠くにあるクシャーナ朝を朝貢させた事になります。

さらに、司馬懿の正統性を強化する為に、倭国を中国に近い文明国とし、倭人を善良な民として記録したのではないか?とする説があります。

倭人が良心的に描かれたのは、当時の政治的な理由があるとも考えられるわけです。

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宮下悠史

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