名前 | 小虢(しょうかく) |
建国と滅亡 | ??ー紀元前687年 |
地図 | 春秋戦国史 |
コメント | 秦により滅ぼされた |
小虢は春秋時代にあった国の一つであり、秦に滅ぼされました。
史記を見ると秦の武公の11年に小虢を滅ぼした記述があります。
滅亡した事の記述がある小虢ではありますが、建国に関しては不明な部分が多いです。
西周王朝が崩壊すると周王朝は本拠地を鎬京から洛陽に遷しました。
この時に、西虢も東遷を行い上陽と下陽を支配する虢国に移ったともされています。
こうした中で西虢の故地が小虢になったとする説があるという事です。
小虢に関しては残った人々がそのままいた説もありますが、小虢は遊牧民の国家だったとする説もあります。
今回は春秋時代に滅んだ国の一つである小虢を解説します。
尚、虢国は各地に分封された様でもあり西虢、東虢、虢国(北虢・南虢)があります。
小虢とは
小虢ですが、名前からいって周王朝の一族に連なるものだとみる事が出来ます。
西虢と東虢なる国がありますが、共に周の文王の弟である虢仲と虢叔が封建される事により誕生した国です。
それらを考慮すれば、小虢が周王朝の一族だったとしても何の不思議もないでしょう。
周王朝の宗家は各地に同族を封じており、その一つが小虢だった可能性もあります。
しかし、別説として周の幽王の時代に西周王朝が崩壊すると、西虢も東に移り黄河を挟んだ虢国が本拠地となり、西虢の故地が小虢と呼ばれる様になったとする説があります。
ただし、西虢の中には東遷を行わずに、地元に残った者もおり、それが小虢になったとする説もあります。
それでも、西周王朝が崩壊した時に犬戎や羌族などの異民族が割拠したとも考えられており、西虢の故地は異民族が占拠し小虢と呼ばれる様になったとも考えられるはずです。
異民族が西虢の故地を占拠したならば、小虢は異民族の国家となるでしょう。
尚、ちくま学芸文庫の史記本紀の106頁に次の記述が存在します。
小虢(陳倉の東方にいた羌族の別種か)
ちくま学芸文庫の史記では小虢が羌族の国だったのではないかと考えている事が分かるはずです。
西周王朝が崩壊した時に関中は異民族が入り込んできて大混乱だったはずであり、西虢の遺民がいたとしても、故地を守り抜く事は至難の業だったのではないかと感じました。
しかし、小虢の実態はよく分からないのが現実だと言えるでしょう。
小虢の滅亡
史記の小虢が滅亡した記述は、次の通りです。
※史記 秦本紀より
11年(秦の武王)。杜・鄭を県とし、小虢を滅ぼした。
上記の記述から秦の武王の11年である687年に秦が小虢を滅ぼした事が分かります。
同時に秦は「杜と鄭を県とした」とする記述があります。
ここでいう鄭は鄭の桓公が東に移った方の鄭ではなく、周の宣王が鄭の桓公を封じた邦君時代の鄭の故地だったのでしょう。
杜や鄭と小虢の位置は少し離れていますが、この頃の秦は周辺国を滅ぼし、県を設置するなど関中での地盤固めを積極的に行っていた事が分かるはずです。
秦の強大化は小虢にとっては不利であり、687年に秦により滅ぼされたと考えられます。
秦は小虢を滅ぼしてから10年が経過すると、秦の徳公は雍城を本拠地としました。
雍と小虢は渭水は渡りますが近い場所にあり、小虢を滅ぼした混乱が収まってきた事で、秦の徳公は遷都を行い雍城に住んだとも考えられるはずです。
小虢が健在なうちは、秦は雍に本拠地を移す事が出来なかったとみる事も出来ます。