名前 | 晋の文侯 |
姓名 | 姫仇 |
生没年 | 紀元前805年?ー紀元前746年? |
時代 | 西周王朝ー春秋戦国時代 |
勢力 | 晋 |
一族 | 祖父:献侯 父:穆侯 弟:成師 子:昭侯 |
年表 | 紀元前785年 殤叔により出奔 |
紀元前781年 晋侯として立つ | |
紀元前757年 韓(西周)を滅ぼす | |
紀元前750年 周の携王を滅ぼす | |
コメント | 周王朝を再統一した |
晋の文侯は西周王朝の時代から春秋戦国時代の初期の人物であり、史記や竹書紀伝、資治通鑑、繋年などに名前が登場します。
西周王朝は周の幽王の時代で終わり、西虢が擁立した周の携王、申にいる周の平王、成周を抑えた鄭の桓公により三つ巴状態となります。
この時に周の平王を支持したのが、晋の文侯であり、鄭も周の平王に臣従を誓いました。
晋の文侯は周の携王を殺害するなど、周王朝の再統一にも尽力しています。
晋の文侯は名君であり、周王朝を存続させた人物とも言えるでしょう。
ただし、晋の文侯には成師なる弟がおり、晋は文侯の死後に晋は内部分裂を引き起こしました。
尚、今回紹介する晋の文侯は春秋五覇の一人である晋の文公(重耳)とは別人なので注意してください。
晋の文侯と桓叔
晋の穆侯には太子の仇がおり、これが晋の文侯となります。
晋の文侯は周の宣王の時代である750年に生まれたと考えられています。
晋の文侯の名前である仇は日本語では「かたき」と読み良い意味ではありません。
それに対し末弟の桓叔の名は成師であり、縁起の良い名前でした。
晋の大夫である師服は晋の文侯(姫仇)と桓叔(成師)の名前から晋の混乱を予想しています。
晋の文侯も成師を警戒していたのか、生涯に渡り何処かの地に封じる事はありませんでした。
尚、晋の文侯は仇という決して縁起の良い名前ではなかったわけですが、名前に押しつぶされる事もなく励む事になります。
いきなりの出奔
父親である晋の穆侯が亡くなると、普通であれば太子の姫仇が後継者になるはずですが、この時に叔父の殤叔が自立しました。
殤叔が晋の君主になってしまった事で、晋の文侯は出奔する事になってしまったわけです。
晋侯になるはずが一転して危機に陥ってしまった晋の文侯でしたが、4年後に殤叔を急襲し自ら晋侯に立ちました。
いきなりの出奔は晋の文侯にとってみれば最悪な出来事だったのかも知れませんが、これが世間を学ぶ良い勉強期間だったのかも知れません。
春秋五覇に数えられる楚の荘王なども即位と同時に苦難がありましたが、名君として名を馳せる事になりました。
紀元前781年に晋の文侯が晋侯となりますが、既に周の幽王の時代であり、西周王朝は崩壊寸前だったわけです。
周の幽王は褒姒を寵愛し、申后と太子の宜臼を廃した事で、申侯とも対立しており西周王朝は混迷を極めました。
尚、周の幽王の時代に西周王朝に仕えていた叔帯が晋の文侯に仕えた話しがあります。
周の東遷
紀元前771年に周の幽王は申や犬戎らにより新太子の伯服と共に殺害されました。
史記の晋世家では「文侯の十年、周の幽王が無道で犬戎に殺害された。周の王室が東遷した」としか書かれていません。
史記では晋の文侯や秦の襄公、衛の武公らが申にいる周の平王の元に集結し、洛陽に入れた位の記述しかありませんが、実際には周の東遷は三十年以上も続き混乱の時代だった事が分かっています。
周の幽王が亡くなると西虢の虢公翰が周の携王を擁立し、鄭の桓公は成周の軍を使って東虢や鄶を滅ぼし自立の姿勢を見せ、申には元の太子である宜臼がいました。
周では三つ巴の争いを見せますが、晋の文侯が周の平王を支持した事でパワーバランスが崩れる事になります。
鄭の桓公が亡くなった頃には、鄭の武公も周の平王に臣従していますが、晋の文侯の意向が大きかった可能性があります。
西虢が周の携王を擁立したわけですが、虢国は紀元前759年までには周の平王を支持する側に変わったとも考えられており、これも晋の文侯が周の平王を支持した事と関係しているのかも知れません。
周の平王が優勢になっていく時代に、晋の文侯は紀元前757年頃に韓(西周)を滅ぼしました。
周の再統一
晋の文侯の最大の功績は、紀元前750年頃に周の携王を滅ぼした事でしょう。
西周王朝の崩壊により分裂した周は平王の元で再び統一されました。
尚書には平王が『文侯之命』を作成し、晋の文侯を侯伯とし諸侯の長とし様々な下賜品を与えた話しがあり、資治通鑑前編には河内を治めさせたとあります。
この時点で周王朝内部での最大の実力者は晋の文侯となっていたはずです。
ただし、繋年によれば周の携王が亡くなってから「9年間、周王が不在だった」とあり、繋年の記述を見ると携王が亡くなっても、直ぐには平王が支持されなかったとみる事が出来ます。
繋年の9年間の周王不在に関しては、晋の文侯は周の携王を滅ぼしはしましたが、周の携王は周の幽王の子ともされており、反感が大きかったのではないかとも考えられています。
周の携王は王畿の邦君らにより支持されていたとも考えられており、晋の文侯の携王殺害は簡単に容認できる様なものではなかったのかも知れません。
尚、晋国内においても携王殺害の余波があり、弟の桓叔(成師)に支持が集まる要因になった可能性もあるはずです。
晋の文侯の最後
周を再統一した晋の文侯ですが、紀元前746年に在位35年で亡くなったとされています。
この時点ではまだ周の東遷は完了しておらず、周の平王は申にいたと考えられています。
晋の文公の死は周王朝内部で鄭の武公や荘公の発言力が大きくなる一因にもなっています。
晋の文侯の後継者になったのが、晋の昭侯ですが、叔父の桓叔を大都市である曲沃に封じました。
ここから晋の本家の翼と分家の曲沃の戦いとなり、最後は分家の曲沃勢が勝利しています。
晋の文侯の直系は絶たれ桓叔の直径が生き残ったわけです。
ただし、晋の本家と分家の戦いは数世代に渡っており、晋の本家が滅びそうになる度に、東周王朝は虢国に命じて晋の分家を攻撃する様に命じています。
周王室が晋の文侯の子孫を守ろうとしたのは、晋の文侯に恩義を感じていたからでしょう。
先代:殤叔 | 晋の文侯 | 次代:昭侯 |