春秋戦国時代

晋の文公(重耳)・放浪の覇者

2021年4月22日

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宮下悠史

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春秋五覇の一人である晋の文公・重耳(ちょうじ)を紹介したいと思います。

尚、重耳が史記の晋世家に登場する時に、下記の記載があります。

年17にして賢士5人あり趙衰・狐偃・賈佗・先軫・魏武子(魏犨)。という

重耳という人は賢者が集まる資質があったのかも知れません。

余談ですが、キングダムの世界は戦国時代の方ですが、晋の文公・重耳は春秋時代の人です。

キングダムの世界よりも400年ほど前の人物で、春秋時代の覇者として認められた人物となります。

尚、キングダムの世界でという国が出てきますが、この3国は晋が3つに分裂して出来た国です。

そのため韓・魏・趙をセットで三晋という呼び方もされます。

私は重耳が好きなのですが、重耳という人物は普通の君主とは一線を画している気がします。

リーダーになる人物は、普通は大望を抱いているわけです。

しかし、重耳を見る限り大望を抱いている様には見えません。

むしろ本人は、【平和に暮らせればいい】とか【幸せに暮らせればいい】位の人で覇者になろうとか、天下統一しようなどとは思わないような人物に感じました。

重耳が覇者になりたいというよりは、臣下の人達が重耳を覇者に押し上げたと言えるでしょう。

覇気のないような重耳がどのようにして覇者になったのか見ていきたいと思います。

尚、重耳は亡命19年して62歳で晋の君主となり覇者への道を突き進む事になります。

JOJOの奇妙な冒険に下記の言葉があります。

「一番の近道は遠回りだった」「遠回り事が俺の最短の道だった」

この言葉を地で行ったような人です。

遠回りの人でという事です。

尚、晋の文公となり重耳は漢帝国を築いた劉邦も手本にした人物とされています。

晋の献公の子として生まれる

重耳の父親は晋の献公です。

晋の献公には、子供が8人いて、その中の3人が優秀だったとされています。

優秀な3人は太子申生、重耳、夷吾です。

太子申生は孝子でもありますし、彼が跡を継げば重耳も君主になる事は無かったでしょう。

むしろ、太子申生が次期君主になってくた方が重耳には都合が良かった様にも感じます。

申生は孝行息子でもあるので、重耳に対しても粗略に扱わず一生楽しく暮らさせた可能性も高いです。

しかし、献公が驪戎(異民族)を討伐した時に驪姫を手に入れ寵愛した事から、運命の歯車が狂いだします。

驪姫は奚斉を生み奚斉を晋の跡継ぎにしようと画策します。

これにより太子申生が死に、重耳、夷吾は亡命せざるを得なくなります。

重耳は母親の実家である狄に、夷吾は梁に亡命しました。

晋の献公は里克虢射梁由靡らに重耳がいる狄(翟)を攻撃させますが、狄は迎撃しています。

晋と狄の戦いである采桑の戦いでは、晋軍の勝利に終わりますが、里克の心が重耳にあった事で、里克は追撃を行わず晋に帰国しています。

狄で季隗と平穏な暮らしをする

重耳は狄に亡命しますが、そこで季隗という女性と出会い娶る事になりました。

二人の子供も生まれ、幸せに暮らしていたと記録が残っています。

重耳自身もここで骨を埋めるつもりだったのかも知れません。

しかし、晋では献公が亡くなり、驪姫の子である奚斉が跡を継ぎましたが里克と丕鄭らが反乱を起こします。

晋の大臣の多くは奚斉を跡継ぎにする事に反対であり、献公が亡くなるのを待ち乱を起こしたわけです。

驪姫と奚斉、卓子だけではなく、宰相の荀息も死亡し、里克は重耳に晋の君主になる様にと屠岸夷を使者として出します。

ここで「ハイ」と言えば君主になれたのですが、臣下の狐偃に反対されて諦めました。

この時に重耳は既に47歳であり、即位しても遅すぎるように感じますが、狐偃は時が成就していないと考えたようです。

重耳が断り弟の夷吾がの力を借りて即位します。しかし、秦との約束を守らなかったり功労者の里克を殺すなど評判を落とす行いが多くありました。

晋の恵公は重耳は晋の国内で人気がある事を恐れ、重耳には勃鞮(人名)という刺客を送り込んでいます。

勃鞮は重耳と会い服の袖を切りましたが、重耳は素早く逃げました。

重耳としては狄に留まりたかったのかも知れませんが、狄に再び刺客を送りこまれる事を恐れて逃亡します。

この時に、重耳と季隗には下記のやり取りがありました。

重耳「必ず迎えにくる!子供たちの事を頼む。25年待って戻らなかったら他によい相手を見つけてくれ」

季隗「25年も経ちましたら、私の墓に大木が生えておりますでしょう。」

重耳「すまん」

季隗「お待ちしております」

そして、重耳は狄を離れ放浪の生活が始まります。

食料が尽きる

狄にいれば、食料に困る事はありません。

しかし、逃亡生活になってしまえば別です。

重耳は斉の桓公(春秋五覇の一人)の元を目指しますが、途中で食料が尽きてしまいます。

その時に、農民に食料の援助を頼んだのですが、農民は茶碗に土を入れて重耳に渡したとされています。

重耳はもちろんキレるわけですが、家臣の趙衰が止め「これは領土を得る吉兆だから、ありがたくもらいなさい」と言われ、ありがく受け取った話が残っています。

しかし、この時の逃亡生活はかなり苦しかったのか、賊臣である介子推は自分の股の肉を重耳に食べさせたという伝説があります。

介子推の股の話しは作り話だと思いますが、それほど過酷な旅だったのでしょう。

衛に助けを求める

斉に行く途中に衛に立ち寄りました。

そこで、衛の文公に援助を頼むわけですが、相手にしてくれずに冷遇されています。

しかし、ここで衛は重耳に恨みを買い、後に君主となる衛の成公の時は道を貸さなかったり晋に非協力的な態度が多く重耳に睨まれました。

覇者になった重耳は衛の成公を毒殺しようと試みてもいます。

話を戻しますが、重耳は衛をさっさと離れる事にしました。

いても、何もしてくれないわけですからね・・・。

斉で骨を埋める決心をする

重耳の人柄を見るのに最適なのは斉での行動だと思っています。

重耳達は斉に到着しました。斉の桓公は盛大に重耳を迎えてくれたわけです。

その当時の斉は名宰相管仲が亡くなったばかりでした。

そのため桓公自身が管仲に匹敵するような人材を探して重耳に目を付けたのかも知れません。

重耳には桓公の美人の娘(斉姜)を嫁がせる事になります。

重耳は斉姜を溺愛します。そして、斉で骨を埋める決心までします。

彼は国に帰り君主になる事よりも、斉で平和に暮らす事を選んだわけです。

その後、斉は桓公が死に公子の内紛があり大幅に国力を落とします。

重耳の妻である斉姜は別の国に移動する事を重耳に進めますが、重耳は聞く耳を持ちません。

「斉姜と安寧に暮らし人生を終わらせる」というのです。

斉姜はある日、重耳を酔いつぶれるまで酒を飲ましました。重耳は寝てしまうわけですが、その隙に臣下たちは無理やり馬車に乗せて斉を立ち去りました。

重耳は起きて目覚めるわけですが、もちろん、「斉を離れたくない!」とゴネてキレるわけですが、臣下に説得されて斉を離れる事になりました。

ここでも、重耳の野望の少なさが光るわけです。

覇者になるよりも平和に暮らしたい宣言までしてしまうのですから・・。

尚、重耳の事を考えれば、既に年齢が60歳になっているので安寧を求めたかったのかも知れません。

曹で無礼な扱いを受ける

重耳の一行は斉を離れて曹(国名)にたどり着きました。

重耳の体は「一枚あばら」とも呼ばれていて、あばらの骨が1枚になっているかのような不思議な体型だったとされています。

これを重耳は気にしていたわけですが、曹の君主である共公は見たいと言ってくるわけです。

大変失礼な事を重耳に言ってきました。

これは重耳が風呂に入っている時に、のぞき見した説もありますが、失礼な行動には違いありません。

重耳はこれに怒りを覚えます。しかし、亡命公子では何も出来ません。

しかし、曹の大夫である釐負羈(きふき)だけは、重耳に対して精いっぱいのもてなしをしています。

尚、曹では里鳧須が食料を盗んだ事で、飢えに苦しみ介子推が自らの股を割き肉を差し出した話もあります。

ただし、介子推の話は事実とは言い難いと感じました。

曹へ復讐する

後に重耳は大国晋の文公となるわけですが、曹の共公に対する恨みは忘れてはいませんでした。

曹を攻めて共公を捕虜とします。

この時に「一枚あばらみたいんだろう?」と不遜な態度を取ったのかは定かではありません。

しかし、亡命中の粗末に扱われた事を根に持っていた事は確かでしょう。

重耳は曹を滅ぼそうとしますが、曹に人に諫められて中止しました。

尚、曹を攻める時に釐負羈には危害を加えないように部下に指示していました。

しかし、春秋左氏伝によると魏武子と顚頡が暴走して釐負羈に家まで焼いてしまいました。

春秋左氏伝の魏武子の言葉で「あんな奴に報いるなんて・・・」という言葉があるので、釐負羈は重耳には好かれていたけど、臣下には嫌われていた可能性があります。

それと重耳が部下の統率が苦手な性格だったのかも知れません。

この辺りも重耳らしいと思います。

宋で国君の礼で迎えられる

宋に重耳達は移動します。

当時の宋は泓水の戦い(宋襄の仁で有名な戦い)でに敗れたばかりでした。

宋の君主である襄公(春秋五覇に数えられる事もある)も負傷していましたが、重耳と会い国君に対する礼で迎えたわけです。

しかし、宋は小国ですし、楚との戦いにも敗れて重耳を後押しするだけの国力はありませんでした。

そこで、重耳一行は早々と宋を去る事にしました。

宋を救い覇者となる

重耳が晋の君主になった時に、宋はに攻められてしまいます。

しかし、重耳としては宋に対する恩義を忘れていなかったようで救援に向かっています。

ここで先軫の策略などもあり楚を城濮の戦いで破り覇者となります。

重耳は宋と楚の両方から恩義を受けた事がありますが、この時は宋を救ったと言う事です。

宋の襄公のファインプレーが宋を救ったと言えるでしょう。

鄭で命を落としかける

重耳一行は宋を離れて鄭(国名)に到着します。

鄭は春秋時代初期は桓公、武公、荘公などが力を持ち強国でしたが、この時は国力を落とした小国になっています。

鄭の文公は重耳一行を冷遇します。

「さっさと出て行ってもらえ」みたいな冷たい態度だったようです。

しかし、鄭の叔詹だけは重耳達の実力を高く評価していました。

叔詹は鄭の文公に「重耳は優秀な公子で、部下たちも一国の宰相の器が揃っている礼を尽くす気がないから殺した方がよい。ここで殺しておかないと国にとって災いとなる」と進言します。

しかし、鄭の文公は重耳をただの老人と見ただけで殺す事はしませんでした。重耳達は鄭を後にします。

叔詹に災いが降りかかる

重耳は後に晋の文公になりますが、鄭に対しては怒っていました。

特に自分を殺す様に進言した叔詹の事は恨んでいたようで誅したいと申し出ています。

命令に逆らうと重耳の恨みを買うために鄭の文公は叔詹に相談しました。

叔詹は、「あの時に主君(鄭の文公)が、私の言う事を聞かなかったばかりにこんな事になってしまった」と言ったとされています。

この言葉から分かる通り、叔詹はさぞかし無念だった事でしょう。

結局、叔詹は自殺してしまいます。

その後、鄭から晋に亡命していた公子蘭(後の鄭の穆公)が鄭の太子となりました。

蘭は重耳のお気に入りだったようです。

楚で厚遇される

鄭を離れて南の大国であるに重耳たちは辿り着きました。

楚では、諸侯の礼を以て重耳を向い入れてくれました。

余りのも盛大に迎えてくれるので、重耳は遠慮し「私は小国からも冷たくされた亡命者だ。礼は辞退したい」と言ったとされています。

しかし、趙衰が「大国である楚が国賓の礼を以て迎えてくれるのは天の意志。お受けになるべきです」と進言するので諸侯の礼を受ける事になりました。

趙衰にしてみれば、これが晋への復帰の足掛かりになると考えていたようです。

楚の成王は連日連夜に渡って重耳を持て成しました。

三舎引く事を約束する

ある時、楚の成王が重耳に「無事に帰国する事が出来たら自分に何の贈り物も頂ける事が出来るのか?」と尋ねました。

すると、重耳は「もし成王様の軍隊と戦う事になったら【三舎引く】事を約束しましょう」と答えたそうです。

【三舎引く】というのは、3日分軍隊を後退させて相手に一目置くという事です。

成王はこれを聞いて笑ったそうです。

しかし、楚の令尹(宰相)や将軍である子玉は重耳は無礼者だと激怒しました。

成王に誅殺する許しを得ようとしましたが許されませんでした。

尚、後に子玉と重耳は戦場で戦うわけですが、この時に重耳は約束を守り三舎軍隊を後退させました。

晋が政情不安になる

重耳がにいる間に、晋の方では恵公(夷吾)が病に倒れました。

恵公の太子である子圉は秦に人質になっていました。

しかし、恵公が病だと聞くと、無断で秦を逃亡し晋に帰国してしまいます。

これに秦の穆公は激怒します。

そして、重耳が楚にいる事を知ると、秦に向かい入れて晋の君主にしようと考えました。

楚よりも秦の方が晋に近いため、重耳は秦国に入る事が決定しました。

これにより重耳は楚から秦に移る事になります。

晋では恵公は亡くなり太子である子圉が懐公となります。

亡命19年に幕を閉じる

秦の穆公は重耳をもてなし、5人の姫を重耳に与えました。

その5人の中に、秦での懐公の夫人も含まれていましたが、重耳は受けています。

重耳は嫌がったのですが、家臣に言われて受ける事にしたそうです。

そして、重耳は秦軍に守られて晋を目指します。

晋の方でも恵公の政治が裏切りが多く懐公も評判が悪く大臣は従う事はありませんでした。

そのため、あっけなく懐公は敗れ去り重耳が君主となります。

恵公の側近が反乱を企てる

しかし、全ての人達が重耳に心腹していたわけではありません。

恵公の側近である郤芮、呂甥が反乱の準備を始めます。

重耳はピンチになります。しかし、かつて狄で重耳を暗殺しようとした勃鞮が重耳を助けています。

そして、郤芮、呂甥の反乱を未然に防ぎ名実共に晋の君主となりました。

ちなみに、下記が重耳が旅をした地図です。

ほぼ中国1週しています。

亡命の月日も19年となり既に62歳になっていました。

62歳の新君主の誕生です。

ちなみに、狄で別れて25年の約束をした季隗は晋に呼び戻したそうです。

再開した時に、どのようになったかは残念ながら伝わっていません。

25年待たなくても8年ほどで再開出来た事になります。

介子推の恩賞を忘れる

重耳は晋の君主となるや論功行賞を行ったりもしています。

しかし、当時の晋は国内外にも問題を抱えており、賊臣である介子推の褒賞を忘れていた話があります。

介子推は、既に重耳の元を離れていましたが、介子推は活躍があり気の毒に思った人が、次の様な書置きを残す事になります。

龍が天に昇り5匹の蛇が龍を補佐した。4匹の蛇は褒賞を受けた。しかし、1匹の蛇だけは恨みいるべき所もない

これを見つけた重耳は、介子推を思い出し恩賞を与えようとしますが、見つけることが出来ませんでした。

重耳は綿上を介山とし介子推を褒賞したわけです。

重耳は自分の過ちを悔いて善人を表彰した話が残っています。

尚、壺叔なる賊臣も重耳の亡命に付き従っており、なかなか褒賞されませでしたが、重耳の恩賞を与える順番は明確であり、4度目の論功行賞で壺叔を褒賞するに至った話があります。

覇者となる

重耳は晋の文公となるのですが、今までに恩を受けた国には施しを与えて、冷遇された国を討つなどしています。

が宋を攻めた時は、重耳も悩みます。

宋からも楚からも手厚くもてなしを受けたからです。

しかし、先軫の策を採用して、宋を助けて楚と決戦をします。

これが城濮の戦いです。

この時に、楚の成王との約束を果たし、重耳は圧倒的に優勢にも関わらず三舎兵を後退させました。

しかし、結局は楚の将軍である子玉を破り、晋の強さを諸侯に見せつけます。

その結果、周王朝から覇者(諸侯同盟の頭)に任命されました。

秦の穆公と鄭を攻める

覇者となった晋の文公は秦の穆公と共に鄭を攻める事になります。

先述した様に、鄭は重耳を粗雑に扱った事が原因です。

鄭の文公は自殺した叔詹の首を晋の文公に引き渡し事を治めようとしますが、晋は納得しませんでした。

そこで鄭は秦の穆公に使いを出し「鄭を滅ぼすのは晋にとっては利益になりますが、秦にとっては利益はありません。鄭の包囲を解き鄭を秦に臣従させるのが一番の利益となるでしょう。」と言わせています。

秦の穆公は鄭の言葉を喜び、鄭の包囲を引き上げて帰国すると晋も鄭の包囲を取りやめて引き上げています。

晋の文公の最後

晋の文公も年齢には勝てず鄭から帰国した後に亡くなっています。

重耳の最後ですが、重耳が亡くなった翌日に次のエピソードがあります。

重耳が亡くなり、翌日に曲沃に向かって棺が送られると、棺の中から牛の様な声が聞こえたわけです。

棺の側にいた郭偃が近くにいた大夫に「君(重耳)は何と言ったのか?」と尋ねると下記の言葉が返ってきた話があります。

大夫「大事を命じております。やがて秦軍が我が国を通過する。それを討てば必ず大勝出来るであろう。」

この後に、姫驩(晋の襄公)が即位しますが、本当にが晋を通過する事になります。

晋の襄公は喪中だったのですが、白の喪服を黒に変え怒って出撃すると、秦軍を散々に破る事に成功します。

尚、晋の襄公も重耳と並び春秋五覇の一人に数えられる事があります。

晋の文公の評価

晋の文公の評価をしてみたいと思います。

自分がいうのも何ですが、重耳って野望が少ない人だと思いました。

臣下の方が野望があり、重耳を覇者に押し上げたように見えます。

重耳は放っておくと、国許に帰ることは忘れてしまい平和に暮らす事を望んでしまうような男です。

重耳は名君とは呼べないのではないでしょうか?介子推の褒賞を忘れていた話などもあります。

しかし、人間的に憎めないところがあり、そこが重耳の魅力なのかも知れません。

重耳に付き従った家臣の方々は重耳の寿命が尽きる前に晋に帰国出来てよかったと思いました。

重耳は自分で策を考えたりできるような人物ではありませんし、家臣が優れていた事は言うまでもありません。

凡庸にして何か人を引き付ける魅力があったのでしょう。

家臣にしてみれば一番操りやすい男だったのかも知れません。

ちなみに、重耳の旅に付き従った趙衰の子孫は後に晋を分割しての国を建てました。

キングダムでは李牧で有名な趙です。

さらに、魏武子の子孫も同様に晋を分割しての国を建てています。

キングダムで蒙驁に攻撃され東群宣言などもあった魏です。

悪く言えば重耳の子孫は共に亡命した家臣たちによって分裂させられてしまったわけです。

しかし、晋の文公は春秋戦国時代の間違いなく名君と呼べるでしょう。

家臣のいう事を用いる事が出来るのも立派な君主の才能です。

尚、漢の高祖劉邦や劉備も重耳を手本にしていた話もあります。

劉邦も重耳も自らの能力はそれほど高いような気がしませんが、張良蕭何韓信陳平と家来は優秀だったと言えるでしょう。

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