師服は西周王朝から春秋時代の初期の人物であり、史記などに名前が登場します。
晋の穆侯に仕えた師服ですが、晋の太子仇と成師の名前に疑問を持った人物でもあります。
「仇」と「成師」の名前から師服は晋の混乱を予測しました。
晋の昭侯の時代に成師が曲沃に封じられると、ここでも「乱は曲沃から起きる」と予言しています。
師服の予言は成就され晋の本家は晋の武公の時代に分家の曲沃に滅ぼされました。
嫡子と庶子の名前
紀元前805年に晋の穆侯に子が生れ「仇」と名付けました。
晋の穆侯は紀元前802年に千畝で戦い勝利を収め、同年に生まれた子を戦勝に因んで、成師と名付けています。
晋では太子が仇で末子が成師となっており、この名前を不思議に思ったのが、師服であり次の様に述べています。
※史記 晋世家より
師服「我が君の子に対する名前の付け方が腑に落ちない。
太子の名は「仇」としたが、仇は讎の意味だ。
末子は成師と名付けたが、成師は大号であり、事業を大成するという意味となる。
名は父親が名付け人間は名によって定まる。
今の状態だと嫡子と庶子の名が相反しており、これでは晋が乱れる事になるだろう」
師服は太子仇と成師の名前から、晋の混乱を予言した事になるでしょう。
末が大きく本が小さい
晋の穆公が亡くなると太子仇が晋の君主となりました。
これが晋の文侯です。
晋の文侯は名君とも呼べる人であり、西周王朝が滅び周が平王と携王に分かれると、携王を討つなど活躍しました。
周の東遷において晋の文侯の功績は極めて大きかったと言えるでしょう。
晋の文侯は師服の予言を聞いていたのか、成師を警戒し土地を与える事が無かったわけです。
晋の文侯が亡くなると晋の昭侯が即位しました。
この時に成師に人望が集まっており、晋の昭侯は大邑である曲沃に成師を封じる事になります。
成師は後に桓叔と呼ばれる様になり、欒賓を宰相としました。
この状況を危ぶんだのが師服です。
師服は次の様に述べました。
師服「晋の内乱は曲肥より起きる。
国とは本が大きく末が小さいから安定するのだ。
それ故に天子は諸侯を建て、諸侯は家を建て、卿は側室を置き、士には子弟がおり、庶民にも上下関係がある。
この様にして民は君主に服し、下の者は過分な要求をしなくなるのだ。
今の晋は諸侯に過ぎないのに別の国を建てた。
しかも、本よりも末の方が大きく民心を得ている。
これで叛乱が起きないはずがない」
師服は晋に反乱が起きる事を確信したかの様な言葉を残しているわけです。
師服の予言は成就する事になりますが、桓叔の代で晋の本家を乗っ取る事は出来ませんでした。
桓叔は晋の首都である翼を攻撃しますが、敗れています。
桓叔が亡くなった後も晋の本家と分家の戦いは続き、周の平王が虢国を使っての横やりも行っており、晋の内乱は長引く事になります。
師服は晋の混乱は予測しましたが、何処まで長引くのかは予測しなかったと言えるでしょう。
師服がいつ亡くなったのかは不明ですが、晋の本家の滅亡までは年代的に考えて生きてはいなかったはずです。