名前 | 結城宗広 |
生没年 | 1266年ー1339年 |
時代 | 鎌倉時代→南北朝時代 |
主君 | 北条高時→後醍醐天皇 |
一族 | 父:結城祐広 兄弟:祐義、広堯、広政 |
子:親朝、親光、親治 | |
1324年 正中の変 | |
1331年 元弘の変 | |
1335年 下野国の守護に任命 | |
1338年 石津の戦い | |
コメント | 太平記にサイコパス的な性格が記載されている。 |
結城宗広は白河結城氏に属す人物で、父親は結城祐広です。
子に結城親朝と親光、親治らがいます。
結城宗広は北条時行を主人公にした漫画『逃げ上手の若君』では、シリアルキラーのサイコパスとして描かれています。
逃げ若にも「太平記」に結城宗広が重度のシリアルキラーだったと書かれていますが、実際に太平記を読むと本当に日に2、3人の生首を見て心を落ち着かせていた話があります。
太平記の記述から、結城宗広はサイコパス的な性格だった可能性は残っています。
ただし、73歳まで生きて天寿を全うしている事を考えれば、創作の可能性もあるはずです。
今回は史実の結城宗広が、どの様な人物だったのか解説します。
結城宗広が生まれた時代
結城宗広は1266年に生まれており、元寇よりも少し前に誕生したと言えるでしょう。
北条時宗が亡くなったのが1284年であり、北条時宗の「宗」の字を拝領し結城宗広と名乗った可能性もあります。
当時の白河結城氏では北条の得宗家と繋がる事で、奥州での立場を強化しようとしていました。
1324年に正中の変が起きますが、この時に結城宗広は鎌倉におり情報を得た話があります。
結城宗広は奥州にいる息子の結城親朝に得た情報を伝えました。
1331年に後醍醐天皇が大事を興そうとしている事が露見しました。
これにより日野俊基が捕らえられ処刑されています。
さらに、後醍醐天皇の側近である文観や円観らの僧侶が捕らえられ、流罪になったりもしています。
太平記によると後醍醐天皇の側近であった円観は、結城宗広に預けられたとあります。
鎌倉幕府にとっても危険人物である円観を結城宗広に引き渡した辺りは、幕府と白河結城氏の密接な繋がりを見る事が出来るはずです。
鎌倉幕府の滅亡
後醍醐天皇は護良親王の進言もあり、笠置山に籠る事になります。
幕府は後醍醐天皇の動きに対し、直ぐに察知し大軍を差し向けました。
この時に、結城宗広も幕府軍の一因として上洛しています。
笠置山の戦いは幕府軍の勝利となり、捕虜となった後醍醐天皇は隠岐に流されました。
しかし、事はこれで終わらず、1332年の11月に吉野で護良親王が挙兵し楠木正成、赤松円心らも呼応しました。
護良親王が吉野で挙兵した時に、結城宗広は出陣せず次男の結城親光が兵と共に近畿を目指す事になります。
幕府軍は護良親王や楠木正成のゲリラ戦に苦戦し、後醍醐天皇も隠岐を脱出し時代は倒幕に傾いてく事になります。
こうした中で鎌倉幕府では名越高家や足利尊氏を討伐軍として派遣したわけです。
護良親王は各地に令旨を大量に発行し、結城宗広の元にも届く事になりました。
後醍醐天皇も綸旨を発行し、各地の勢力に倒幕を呼び掛けています。
上洛して戦っていたのは結城親光でしたが、後醍醐方に転じる事になります。
足利尊氏も後醍醐方に鞍替えし、各地に後醍醐天皇に味方する様にと軍勢催促を行いました。
足利尊氏は京都を守護する六波羅探題を攻撃し滅ぼす事になります。
関東では新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす為に軍勢を集めますが、結城宗広も新田義貞の軍勢に加わりました。
尚、この時に、結城宗広はギリギリまで決断する事が出来ず、鎌倉幕府の滅亡が見えてきた所で、新田義貞に味方した事が分かっています。
奥州でも結城宗広の嫡男である結城親朝が幕府方と戦争を行っていたのではないかと考えられています。
結城宗広が後醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の軍勢催促状を受け取ったのは、鎌倉幕府が滅亡してからだと分かっており、結城宗広は情勢を見定めて後醍醐天皇に味方したのでしょう。
白河結城氏は結城宗広が関東で新田義貞の軍に参陣し、奥州では長男の結城親朝が奮戦し、近畿でも次子の結城親光の活躍があり、功績は大きかったわけです。
陸奥将軍府の開設
1333年の8月に北畠顕家が陸奥守となり、義良親王を奉じて陸奥将軍府を開設しました。
北畠顕家は若かった事もあり、父親の北畠親房が同行し補佐する事になります。
後醍醐天皇は陸奥将軍府を開設するにあたり、結城宗広に補佐する様に言い伝えました。
鎌倉幕府を滅ぼすのに貢献した白河結城氏に後醍醐天皇は陸奥将軍府への忠節を期待したのでしょう。
北畠顕家を補佐する式評定衆8人に冷泉家房、藤原英房、二階堂行朝、二階堂顕行らが選出され、奥州からは結城宗広、結城親朝、伊達行朝が選ばれますが、最後の一人は不明です。
さらに、後醍醐天皇は結城宗広に結城一族の惣領を任せました。
白河結城氏は本来は下総結城氏の庶子の分家でしかありませんでしたが、下総結城氏は鎌倉幕府の討伐に積極的ではなく、結果として結城宗広が結城氏の惣領となったわけです。
功績を挙げる
1335年に北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が勃発し、足利直義が敗れ鎌倉が占拠されました。
後醍醐天皇の制止を振り払って足利尊氏は鎌倉奪還に動き、北条時行らを破り鎌倉を取り戻しました。
後醍醐天皇は新田義貞に足利兄弟を討伐する様に命じますが、足利尊氏は新田義貞を破り、そのまま京都に進軍する事になります。
足利尊氏の動きに対処する為に、後醍醐天皇は陸奥将軍府の北畠顕家に上洛を命じますが、この軍の中には結城宗広や結城親朝もいました。
尚、結城親光は独自で足利尊氏を暗殺を企てて見破られはしましたが、大友貞載を道連れにして亡くなった話が残っています。
結城宗広は結城親光の死を悼むだけではなく忠節を称賛しています。
近畿で北畠顕家、新田義貞、楠木正成は共闘し、足利尊氏を破り足利尊氏は九州に落ち延びて行きました。
この一連の戦いで武勲を挙げた結城宗広は後醍醐天皇から「鬼丸」という宝刀を下賜され、下野国守護にも任命されています。
足利尊氏を京都から追い払った事で、奥州軍は帰還しますが、各地で足利尊氏に呼応する者がおり、戦いを続けながら帰路に着きました。
結城宗広も奥州に戻る事になります。
北畠顕家や結城宗広ら主力軍がいない間に、尊氏派が盛んになっており、重要拠点である瓜連城が陥落しました。
陸奥将軍府の危機を感じた義良親王や北畠顕家により、本拠地を伊達郡霊山城に移す事になります。
所領の譲与
近畿から奥州に戻った結城宗広ですが、自らの所領を結城親朝の子である結城顕朝に譲り渡しました。
結城宗広は鎌倉幕府が滅亡してから功績を挙げ続けており、拡大した所領を子孫に受け継がせる為の処置だと考えられています。
結城顕朝が白河結城氏の惣領となります。
後年になりますが、結城親朝の方では弟の結城朝常に所領を譲与し、これが白河結城氏の分家である小峰氏に変わって行く事になるわけです。
結城朝常が小峰城を貰った事から、小峰氏を名乗ったわけです。
結城宗広は白河結城氏の地盤を強化していったとも言えるでしょう。
最後の上洛
九州に落ち延びた足利尊氏ですが直義と共に、激闘を繰りぬけて短期間で勢力を挽回しました。
足利尊氏は大軍を率いて京都に向かって進撃し、湊川の戦いでは新田義貞と楠木正成を破っています。
足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉し、光厳上皇の弟である光明天皇を即位させました。
後醍醐天皇は幽閉先を脱出し、吉野で南朝を開く事になります。
ここで後醍醐天皇が期待したのが、過去に足利尊氏を破った奥州勢の存在です。
後醍醐天皇が結城宗広に期待していた事も間違いないでしょう。
後醍醐天皇は奥州勢の上洛を望みますが、奥州には混乱があり直ぐに動く事が出来ませんでした。
1337年の4月5日には結城宗広の元に「上洛の遅参」をなじる綸旨が出された話があります。
しかし、1337年の8月21日に奥州勢力は再び上洛の途に就く事になり、この軍に結城宗広も加わっていたわけです。
白河結城氏では後継者の結城親朝を白河に留めて置き、結城宗広が出陣しました。
尚、結城宗広が、これを最後に二度と奥州の地を踏む事はありませんでした。
1337年の上洛は結城宗広の最後の戦いとも言ってもよいでしょう。
結城宗広の策
奥州軍は上洛するに辺り、鎌倉を攻撃し北条時行の協力もあり、斯波家長を戦死させる事に成功しました。
美濃の青野原の戦いでも奥州軍は土岐頼遠の軍を破る事になります。
機内では足利軍と奥州軍の間で激闘が繰り広げられますが、北畠顕家は高師直との戦いで命を落とす事になります。
これが1338年の事です。
北畠顕家の戦死後も結城宗広は生き残っており、後醍醐天皇に奥州勢を上手く利用する様に献策しました。
後醍醐天皇は北畠顕信を補佐とし、結城宗広も帰郷し奥州から挽回する様に献策したわけです。
さらに、九州には懐良親王を向かわせました。
結城宗広は義良親王、北畠親房、北畠顕信らと船で奥州を目指しますが、義良親王や結城宗広を乗せた船は暴風雨により、伊勢に戻されてしまいました。
伊勢で結城宗広は病に倒れる事になります。
結城宗広の最後
伊勢で病に倒れた結城宗広ですが、症状は回復せず本人も死を悟る事になります。
この時に、結城宗広に極楽浄土に行く為に念仏を唱える様に述べた者がおり「思い起こす事はないか」と訪ねました。
すると、結城宗広は次の様に答えています。
※太平記より
結城宗広「これまでの栄華は身に余るほどだ。
今の私は朝敵を滅ぼさずに世を去る事になり、成仏は出来ないだろう。
故に息子の親朝は私の後生を弔おうとするならば、仏や僧に祈るのではなく、朝敵の首を取り我が墓前に備えよ」
結城宗広は言い終わると刀を抜いて歯噛みをして亡くなる事になります。
結城宗広の顔は前代未聞の悪相だったと記録されています。
尚、平清盛が亡くなる時に「頼朝の首を我が墓前に掛けよ」と述べており、結城宗広の最後と非常によく似ている事から、太平記の作者が結城宗広の最後を平家物語からオマージュしたのではないかとされています。
結城宗広は朝敵を打倒する様に結城親朝に遺言したわけですが、結城親朝は再三に及び北畠親房の救援要請に応じず、白河結城氏の事を考えて北朝に味方しました。
結城親朝にも言い分はありますが「親の心子知らず」となってしまったわけです。
結城宗広の最後の地は太平記では伊勢の安濃津(三重県津市)だとされていますが、結城宗広の夫人の書状が残されており、現在では伊勢国吹上(三重県伊勢市)だと考えられる様になっています。
結城宗広は伊勢で亡くなりましたが、福島県白河市に結城宗広のお墓があります。
名前 | 住所 | 電話番号 |
結城宗広の墓 | 福島県白河市愛宕町94 | 0248-23-3538 |
結城宗広がシリアルキラーのサイコパスだと言われる由縁
結城宗広がシリアルキラーのサイコパスだと言われる理由は、太平記にあります。
太平記の第20巻の最後を飾る章のタイトルは「結城入道堕地獄の事」となっており、結城宗康が地獄に堕ちた話です。
太平記では結城宗広が亡くなった後に、普段の行いが記載されており「十悪五逆の大悪人」だったと書かれています。
結城宗広は咎なき者を討ち縛り、尼であっても容赦せず、常に死人の生首を見なければ、心が落ち着かなかったとあります。
僧俗男女問わず日に2,3人が首を切って、わざと目の前に掛けさせたと言います。
流石に、毎日2,3人切っていたら年間で1000人ほど処刑した事になり、10年で1万人となってしまうはずです。
結城宗広は73歳まで生きており、20代から処刑を始めていたら、5万人は処刑した事になり、流石に話を盛り過ぎていると考えるべきでしょう。
しかし、直ぐに人を処刑する癖が結城宗広にあった可能性は残っています。
ただし、罪亡き者を殺害したりいたぶったりすれば、三国志の張飛の様に寝首を掻かれる事もあり、73歳まで生きた事を考えれば、創作の可能性もある様に感じています。
尚、太平記では一人の山伏が無限地獄に苦しむ結城宗広の夢を見て、奥州にいた結城親朝に伝えました。
これにより結城親朝は父親の死を知り供養を行う事になります。
因みに、太平記の20巻は新田義貞の北陸での奮戦と討死が大部分を占めていますが、結城親朝が亡くなった所で20巻は終わりとなります。