名前 | 大覚寺統 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
歴代天皇 | 亀山天皇、後宇多天皇、後二条天皇、後醍醐天皇 |
コメント | 両統迭立により持明院統と皇位継承を争う |
大覚寺統は亀山天皇を初代とする系統を指します。
大覚寺統の名前の由来は後宇多天皇が大覚寺で政務を執った事から大覚寺統と呼ばれる様になりました。
亀山天皇の兄である後深草天皇の系統を持明院統と呼び、皇位継承を巡って大覚寺統と争う事になります。
大覚寺統と持明院統で交互に天皇を出す両統迭立や文保の和談もありましたが、大覚寺統が完全に納得する事はありませんでした。
後に大覚寺統から後醍醐天皇が出て鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政が始まりますが、足利尊氏の離脱もあり短期間で崩壊しています。
後醍醐天皇は吉野で南朝を開きますが、後醍醐天皇が元々傍流であった事から、大覚寺統の多くの者が京都に残りました。
南朝=大覚寺統と思われがちですが、実際には大覚寺統の中で京都に残る者が多く実質的に分裂していたと言えそうです。
尚、足利義満の時代に南北合一がありましたが、明徳の和約は反故にされており、現在の皇室は大覚寺統ではなく持明院統の系統だと言えるでしょう。
大覚寺統の分裂に関する動画を作成してあり、この記事の最下部から視聴できる様になっております。
大覚寺統とは
第89代の後嵯峨天皇には何人か皇子がいましたが、その中の宗尊親王は鎌倉幕府の征夷大将軍となり、天皇の位は弟の後深草天皇が継ぎました。
しかし、後嵯峨天皇は弟の恒仁を可愛がり後深草天皇に譲位を迫り、恒仁が亀山天皇として即位しています。
後深草天皇の系統を持明院統と呼び、亀山天皇の系統を大覚寺統と呼びます。
後嵯峨天皇は崩御する時に後継者を決めておらず、幕府に意向に従う様にと遺言しました。
幕府は西園寺姞子の話などを聞き、大覚寺統の亀山天皇の子である後宇多天皇の即位を認める事になります。
大覚寺統の後宇多天皇が即位しましたが、次の天皇には後深草天皇の子で持明院統の伏見天皇が後継者になりました。
伏見天皇が即位した背景には後深草上皇が幕府の北条時宗に働き掛けたのが原因です。
伏見天皇の後継者は皇子で持明院統の後伏見天皇となりますが、次の天皇には後宇多天皇の子で大覚寺統の後二条天皇が即位する事になります。
後二条天皇の後継者が後伏見天皇の弟で持明院統の花園天皇が即位しました。
この様に大覚寺統と持明院統で交互に天皇を輩出する仕組みを両統迭立と呼びます。
大覚寺統と持明院統の分派が王朝の分裂を呼び南北朝時代の深淵となっています。
一般的な見方たとしては持明院統が室町幕府が推戴する北朝となり、大覚寺統が南朝になったとする場合が多いです。
尚、鎌倉幕府の意向もあり文保の和談も成立しましたが、近年の研究では文保の和談では大覚寺統と持明院統は合意にまで達してしなかったのではないかと考えられる様になっています。
因みに、大覚寺統と持明院統の初代とも言える亀山天皇と後深草天皇は仲が良かった話もありますが、数代が経過すれば親近感は薄れ皇位継承を巡って政争を繰り返す事になりました。
亀山上皇と恒明親王
亀山法皇は後宇多天皇を即位させていましたが、晩年に生まれた恒明親王を後継者にしようと考えました。
亀山法皇が恒明親王に皇位継承させたのは、溺愛していた為とされています。
恒明親王を天皇になれる様に、亀山法皇は持明院統の後伏見上皇に働きかけるなどし認めさせています。
亀山法皇は持明院統の花園天皇の次に、大覚寺統の恒明親王が天皇になれる様にと考えたのでしょう。
後宇多天皇は弟の恒明親王が天皇になる事を不満に思い亀山法皇が崩御すると、直ぐに約束を保護しました。
後宇多天皇は大覚寺統の自分の系統こそが皇位継承するべきだと考えていたわけです。
こうした経緯もあり大覚寺統では、後二条天皇の系統と恒明親王も系統が対立する事になります。
後宇多天皇の政治力
大覚寺統の後宇多上皇は政治力を発揮し、花園天皇に譲位を迫りました。
大覚寺統では後二条天皇が若くして崩御しており、邦良親王が幼かった事で、後宇多の子で後二条天皇の弟である後醍醐天皇を即位させようとします。
後宇多上皇は後醍醐天皇を中継ぎの天皇として考えており、皇太子を邦良親王としました。
後宇多上皇がやり手だった事もあり、大覚寺統の後宇多上皇が治天の君となり、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王となったわけです。
後宇多上皇は邦良親王の後継者を持明院統の量仁親王(光厳天皇)としましたが、治天の君、天皇、皇太子を大覚寺統のものにする事が出来たと言えるでしょう。
この時点で大覚寺統は持明院統を圧倒していたとみる事が出来ます。
後醍醐天皇の不満
後宇多上皇の構想では後醍醐天皇は邦良親王が即位するまでの中継ぎでしかなかったわけです。
後宇多上皇は後醍醐天皇に変な気を起こさない為に、周りの公家などにも周知させるなどしていました。
しかし、後醍醐天皇は強烈な意思を持った天皇であり、後宇多天皇の考えに納得せず、後醍醐天皇と皇太子の邦良親王が不和だったとする話もあります。
花園上皇の日記でも後醍醐天皇と邦良親王が不和だったと書かれており、大覚寺統の天皇と皇太子の不和は隠しようがない状態だったのでしょう。
後醍醐天皇の焦り
1326年に皇太子の邦良親王が後醍醐天皇よりも先に亡くなってしまいました。
ここで後醍醐天皇は自分の子である尊良親王を立太子しようと考えたわけです。
この時に亀山法皇が天皇に即位させようとした大覚寺統の恒明親王が皇位を継ぐべきとする動きや、邦良親王の弟の邦省親王が皇太子として定めるべきだとする声もありました。
しかし、鎌倉幕府は両統迭立を最優先し、持明院統の量仁親王を皇太子にする様に告げています。
後醍醐天皇はこのまま何もしなければ退位させられ、自分の子が天皇になる事が出来ないと危機感を感じてもおかしくはないでしょう。
尚、先に亡くなってしまった皇太子の邦良親王にも子に康仁親王や邦世親王がいた事や、恒明親王の存在も後醍醐天皇の悩みでもあったはずです。
後醍醐天皇はあくまでも傍流であり、大覚寺統の直系でいえば後二条天皇、邦良親王、康仁親王のラインとなります。
鎌倉幕府と両統迭立
後醍醐天皇は子の護良親王らと共に元弘の変を起こしました。
後醍醐天皇は笠置山で籠城戦を展開しますが、捕虜となり隠岐に流されています。
これにより鎌倉幕府は後醍醐天皇の退位とし持明院統の量仁親王を光厳天皇として即位させました。
ただし、鎌倉幕府は光厳天皇の皇太子を大覚寺統の康仁親王としており、両統迭立の維持を最優先させたわけです。
鎌倉幕府は後醍醐天皇が反旗を翻しても、大覚寺統を潰すつもりも無かったと言えます。
大覚寺統分裂の予兆
鎌倉幕府打倒は護良親王や楠木正成により継続され、足利尊氏が朝廷側に寝返り六波羅探題を滅ぼし、足利一門の新田義貞が千寿王を擁立し鎌倉を陥落させ鎌倉幕府が滅亡しました。
後醍醐天皇は京都に戻ると建武の新政を始めますが、持明院統の領地を安堵させるなどを最優先で行っています。
しかし、持明院統の光厳天皇を即位していなかった事にさせ、大覚寺統の康仁親王の皇太子の位を剥奪させています。
後醍醐天皇は恒良親王を皇太子に指名し、自分の子孫だけが皇位を継げる様にしました。
さらに、後醍醐天皇は康仁の親王号まで剥奪しており、これらの行動は大覚寺統内の分裂を招く結果になったと考える事も出来ます。
尚、亀山天皇、後宇多天皇、後二条天皇、邦良親王、康仁親王の系統を木寺宮家と呼びます
木寺宮家と南朝
北条時行の中先代の乱を決起として建武政権は崩壊に向かいます。
足利尊氏は新田義貞や楠木正成を破り後醍醐天皇とも和解し、持明院統の光明天皇を即位させ光厳上皇を治天の君としました。
光明天皇の皇太子を後醍醐天皇の子である成良親王としますが、これに納得できない後醍醐天皇は吉野に移り南朝を開く事になります。
後醍醐天皇は吉野に移りますが、康仁親王はこれに同行せず京都に残りました。
康仁親王の木寺宮家は大覚寺統の嫡流とする見方もあり、南朝は大覚寺統の傍流だったとも言えるでしょう。
康仁親王は後醍醐天皇の性格も考えて自分が天皇になれる希望も南朝には存在せず、京都の残ったのではないかとも考えられています。
木寺宮家の康仁親王は観応の擾乱の頃まで生きたと伝わっています。
尚、木寺宮家には康仁親王、邦恒王、世平王、邦康親王、師煕親王と繋がって行く事になります。
後醍醐天皇に従わない大覚寺統の勢力
後醍醐天皇が南朝を開いた時に恒明親王は存命していましたが、後醍醐天皇に従わずに京都に残っています。
恒明親王は父親の亀山天皇の意向により天皇即位の道が開かれたにも関わらず、後宇多天皇に潰されており、後醍醐天皇に対してもよい感情を抱いてはいなかったのでしょう。
他にも大覚寺統には後二条天皇の皇子で邦良親王の弟である邦省親王がいました。
邦省親王は過去には「皇太子になるべきだ」とする声も上がった人物でもあります。
しかし、邦省親王も後醍醐天皇には従わず京都に残りました。
因みに、北朝では光明天皇が崇光天皇に譲位した時に、京都に残っていた邦省親王を皇太子にするべきとする動きがありました。
大覚寺統ではありました、邦省親王は北朝内部で両統迭立を考えたのかも知れません。
ただし、邦省親王の天皇擁立計画は足利直義の腹心である上杉重能により阻止されています。
後醍醐天皇に従った勢力
大覚寺統の中にも後醍醐天皇に従わない勢力が多くいた事は既に話しました。
しかし、大覚寺統の中にも性円法親王の様に後醍醐天皇を支持し吉野に向かった人物がいた事が分かっています。
ただし、性円法親王が去った後の大覚寺門跡には安井宮寛尊法親王が就任しており、室町幕府と接近しました。
安井宮寛尊法親王は亀山天皇の子であり大覚寺統でありながらも、後醍醐天皇に従わなかったと言えるでしょう。
安井宮寛尊法親王も後醍醐天皇を補佐しますが、後村上天皇の時代に亡くなっており、この頃には室町幕府に接近していたと考えられています。
これまでの記事を読んでもらえれば大覚寺統の中にも京都残留した者が多くおり、大覚寺統=南朝ではない事も分かるはずです。
大覚寺統も一枚岩とはいかなかった事は歴史が証明しています。
大覚寺統の皇位継承
亀山ー後宇多ー後二条ー後醍醐
大覚寺統の動画
大覚寺統の分裂を題材にしたゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は亀田俊和先生の「南朝の真実 忠臣という幻想」をベースに作成しました。