鎌倉時代

文保の和談は遺恨を残していた

2024年12月14日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前文保の和談
読み方ぶんぽうのわだん
年表1317年

文保の和談は持明院統の花園天皇が大覚寺統の後醍醐天皇へ譲位するまでの経緯を指します。

大覚寺統や持明院統は互いに自陣営を有利に進めようと計り鎌倉幕府に働きかけを行い結果として、幕府の仲裁により文保の和談が成立しました。

文保の和談と言えば大覚寺統と持明院統がお互い納得したかに思うかも知れませんが、実際には両者に遺恨が残る形となっています。

文保の和談により即位した後醍醐天皇も倒幕を目指す様になり、当時の悪党問題などとも重なり、鎌倉幕府が滅亡した理由が文保の和談にあったのではないかとする説もある程です。

両統迭立の最終章とも呼べる文保の和談は覚えておきたい所です。

尚、文保の和談の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

両統迭立の始まり

文保の和談を知る上で大覚寺統と持明院統の両統迭立を覚えておく必要があります。

後嵯峨天皇は治天の君となると兄の後深草天皇を即位させています。

しかし、後嵯峨上皇は後に弟の亀山天皇を即位させました。

これが両統迭立の始まりでもあります。

後嵯峨法皇が崩御する時に、後継者を決めておらず鎌倉幕府に決定を委ねました。

幕府は大宮院に確認するなどし亀山天皇が治天の君となり、親政を始めますが、2年ほどが経過した所で上皇となり後宇多天皇に譲位しています。

亀山上皇は院政を始め政治体制を整えました。

ここで亀山天皇の子孫が皇室を継承していくかに思われましたが、ここで幕府が横やりを入れ後深草上皇の子の熙仁を皇太子にする様に要請してきたわけです。

亀山上皇は幕府に逆らう事が出来ず、熙仁を皇太子としました。

亀山上皇の院政は1287年まで続きますが、関東申次の西園寺実兼が幕府の意向を伝え持明院統の熙仁の即位を要請してきました。

亀山上皇は幕府の意向に抗う事が出来ず熙仁が伏見天皇となり、後深草上皇が治天の君となります。

ここにおいて文保の和談の前段階で大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す、両統迭立の仕組みが出来上がったと言えるでしょう。

鎌倉幕府が皇位継承への影響力を行使する事になります。

持明院統が有利な情勢

持明院統の後深草上皇が治天の君となり、伏見天皇が即位しますが、ここで大覚寺統を驚かせたのは、皇太子に同じく持明院統の胤仁親王が選ばれた事です。

両統迭立で考えれば伏見天皇の皇太子には大覚寺統の後宇多天皇の子である邦治親王が選ばれてもよさそうですが、伏見天皇の子の胤仁親王が選ばれました。

この時点で治天の君、天皇、皇太子を持明院統で独占しており、持明院統が優勢になったと言えるでしょう。

因みに、この時期に京極為兼が和歌を通じて伏見天皇に取り入った話があります。

尚、後深草上皇は亀山上皇の兄でもあり、嫡流は持明院統だと考えており、当然の結果だと思ったのかも知れません。

大覚寺統の反撃

1298年に伏見天皇は後伏見天皇に譲位を行い院政を始めました。

この時に皇太子に指名されたのが、大覚寺統で後宇多天皇の子である邦治親王だったわけです。

亀山上皇や後宇多上皇が幕府に働きかけ邦治親王を皇太子にする様に要請したと考えられています。

尚、亀山上皇は後宇多上皇の弟である恒明親王を即位させようとした話もありますが、亀山上皇が崩御すると後宇多上皇は邦治親王を皇太子に定めました。

持明院統は後宇多上皇の政治工作により、持明院統で皇位を独占する計画は失敗に終わったわけです。

五上皇の誕生

1301年に亀山法皇の働き掛けもあり、後宇多法皇が治天の君となり、邦治親王が後二条天皇として即位しました。

ただし、皇太子は持明院統の富仁親王となっており、大覚寺統の独占を許しませんでした。

この時期に大覚寺統には亀山法皇と後宇多法皇がおり、持明院統には後深草法皇と伏見上皇、後伏見上皇がおり、5人の上皇が誕生した事になります。

両統迭立により上皇がゴロゴロいる様な状態になってしまったわけです。

両統迭立により大覚寺統も持明院統も自勢力を有利にする為に、鎌倉幕府に働きかけを行っており、見方を変えれば鎌倉幕府も皇室の争いに巻き込まれたと言えるでしょう。

文保の和談と摂津親鑑

1301年の即位した大覚寺統の後二条天皇ですが、1308年に崩御しました。

後二条天皇は父親よりも先に世を去ったわけです。

後二条天皇が崩御すると予定通りに、持明院統の富仁親王が即位し花園天皇となり治天の君は父親の伏見天皇となりました。

花園天皇の即位により後宇多法皇の院政は停止され、大覚寺統としては一刻も早く皇位を取り戻したいと考えており、文保元年(1317年)に鎌倉幕府の役人である摂津親鑑が入京する事になります。

この摂津親鑑が文保の和談において重要な役目を果たす事になります。

聖断たるべし

摂津親鑑が文保の和談を成立させるわけですが、注目されるのが「聖断たるべし」とする言葉です。

「聖断たるべし」の言葉に関しては近年では「皇位に関しては天皇家で仲良く決めてください」と解釈される事が多いです。

これが文保の和談であり鎌倉幕府の「大覚寺統・持明院統のどちらかの味方はしません」という方針を打ち出した事になります。

ただし、大覚寺統や持明院統は有利に事を運ばせようと考えており、鎌倉幕府に働きかけを続ける事になります。

伏見上皇の崩御と大覚寺統の攻勢

文保二年(1318年)に持明院統の柱石でもある伏見上皇が崩御しました。

この時には既に伏見天皇は後伏見上皇に治天の君の座を譲っていました。

ここで大覚寺統の後宇多法皇は政治力を発揮し関東申次である西園寺実兼を通し、持明院統に譲位を迫る事になります。

花園天皇は大覚寺統の攻勢に耐えきれず後醍醐天皇に譲位しました。

後宇多法皇の攻勢は続き後宇多法皇が治天の君、天皇が後醍醐天皇、皇太子が後二条天皇の子である邦良親王となります。

後醍醐天皇の甥が邦治親王であり、一般的には後宇多天皇は後醍醐天皇を中継ぎの天皇として考えていたとされています。

大覚寺統で治天の君、天皇、皇太子を独占しますが、皇太子の邦治親王の次に天皇になるのが、持明院統の量仁親王となりました。

文保の和談とは後醍醐天皇が即位するまでの経緯を指します。

文保の和談により拡がる不安

後宇多法皇は一般的には後二条天皇の系統を嫡流と考え邦良親王に皇位を継承させようと考えていたとされています。

邦良親王が幼く病弱であった事から、後宇多法皇は後醍醐を中継ぎの天皇として即位させたとされているわけです。

しかし、後醍醐天皇は自分が中継ぎの天皇とは考えず、自分の子孫が皇位継承するべきだと考える様になります。

さらに、後宇多法皇が政務への意欲を無くして行き後醍醐天皇の新政が始まりました。

大覚寺統の皇太子である邦良親王は後醍醐天皇が我が子に皇位を継承させようと考えている事を知り不安になり、後醍醐天皇との仲が上手くいかなくなり、後醍醐天皇も邦良親王を厭む存在となります。

持明院統の方では本当に量仁親王が後継者になれるのか心配な部分もあり、不安は広がったわけです。

文保の和談とは言いますが、実際には大覚寺統にも持明院統にも不安を残す結果となります。

文保の和談と後醍醐天皇

文保の和談により天皇に即位し表舞台に登場した後醍醐天皇ですが、邦良親王に皇位が継承される事も納得できるものではありませんでした。

さらに、邦良親王の次に天皇になるのは持明院統の量仁親王であり、皇位継承が持明院統に移るのも納得できなかったはずです。

文保の和談の立役者とも言うべき後宇多法皇は1324年に崩御しました。

邦良親王に皇位継承出来る様に考えたのは後宇多法皇であり、後宇多法皇が崩御したのは後醍醐天皇にとって追い風となります。

後宇多法皇が崩御し暫くすると正中の変が勃発しました。

最近の研究では正中の変に後醍醐天皇は関与していなかったのではないかと考えられる様になっています。

1326年になると大覚寺統の皇太子だった邦良親王が若くして世を去りました。

これにより大覚寺統は皇太子を失った事になり、後醍醐天皇は自らの子である尊良親王を後継者にしようとしています。

しかし、大覚寺統の邦良親王を支持していた者達は弟の邦省親王を皇太子にするべきだと考えました。

ここで鎌倉幕府では後醍醐天皇の皇太子には両統迭立に則り、文保の和談の取り決めにも従い持明院統の量仁親王が後継者になるべきだとしました。

幕府はあくまでも文保の和談の内容を遵守しようとしたわけです。

文保の和談は幕府の悲鳴だった

文保の和談が幕府の悲鳴だったとする説があります。

鎌倉幕府というのは御家人を統括する組織だったわけです。

しかし、永仁の徳政令により寺社なども幕府を頼る様になり、さらには悪党問題など幕府は手いっぱいの状態でした。

幕府は悪党問題に対処する為に、強権を振るい鎌倉幕府及び北条得宗家のキャパは限界に達していたわけです。

さらに、朝廷の大覚寺統や持明院統も皇位継承を幕府に委ね自勢力が有利になる様に、使者を送り続けました。

文保の和談の「聖断たるべし」の言葉は「皇位継承は朝廷の方で決めてください」と言いたかったわけであり、幕府の苦悩が分かる様でもあります。

しかし、文保の和談により後醍醐天皇の子孫に皇位継承される道が塞がれており、後醍醐天皇は悪党とも誼を結び倒幕に舵を切る事になります。

幕府では悪党の取り締まりなどを朝廷から押し付けられ、その朝廷の後醍醐天皇が多くの者を自分の味方とし倒幕を行っており、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきます。

後醍醐後天皇を追い詰めたのは文保の和談とみる事も出来る為、文保の和談が鎌倉幕府を滅ぼしたと言えるのかも知れません。

文保の和談の動画

文保の和談のゆっくり解説動画を作成してあります。

この記事及び動画は中公新書の「北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像」をベースに作成しました。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細