名前 | 直仁親王(なおひとしんのう) |
生没年 | 1335年?ー1398年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:花園天皇、光厳天皇? 母親:宣光門院 |
子:周高西堂、任西堂、尊立、全朋親王? | |
コメント | 光厳上皇により天皇に指名されるも廃太子となった。 |
直仁親王は花園天皇の子という事になっていますが、光厳天皇が後に自分と宣光門院の間に出来た子だと告白しています。
北朝の治天の君である光厳天皇は光明天皇の後に崇光天皇を即位させていますが、皇太子を直仁親王に決定しました。
これにより直仁親王が天皇になる道が開けたわけです。
しかし、観応の擾乱により足利直義が亡くなり、南朝の軍が京都を占拠した事で、光厳プランは破綻し直仁親王は廃太子となってしまいました。
直仁親王は光厳上皇、光明上皇、崇光天皇らと南朝に拉致されてしまいますが、数年後に京都に帰還しています。
直仁親王は京都に帰還しますが、室町幕府は後光厳天皇を擁立しており、直仁親王を天皇に即位する話は無くなっていました。
尚、直仁親王は1398年に亡くなっており、南北朝時代を最初から最後まで生き抜いた人物だと言えるでしょう。
直仁親王の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
直仁親王の誕生
直仁親王は1335年に花園天皇の子として生まれました。
普通で考えれば花園天皇は中継ぎの天皇でしかなく、傍系の直仁親王が天皇になる可能性は無かったはずです。
北朝では光明天皇が即位し、光厳上皇が治天の君となっていました。
光厳上皇は息子の興仁親王(崇光天皇)を即位させようとしますが、この時に皇太子を直仁親王とし、室町幕府の足利直義の了承も貰っています。
康永三年に光厳天皇は直仁親王は自分と正親町実子(宣光門院)の子だと告白しました。
直仁親王は花園院の子として考えられてきましたが、実は光厳上皇の子だったと述べたわけです。
思いもよらず、直仁親王は天皇即位のチャンスが回って来たと言えるでしょう。
尚、直仁親王は崇光天皇よりも一つ年下となります。
光厳上皇の計画
光厳上皇は皇位継承と所領処分に関しても決めており、皇太子の興仁親王に因幡国衙領・法金剛院領などの所領の譲与を決めました。
さらに、興仁親王には一代だけの天皇として定め、皇位は直仁親王に継承される様に定めています。
光厳上皇は、起請文を作成し、次の四点を明記しました。
※室町・戦国天皇列伝(戎光祥出版より)
①直仁を興仁の皇太子と定め、将来、興仁に男子が生まれても仏門に入れ、直仁の子孫が皇位継承すべきこと。
②その理由は、実は直仁は自分の「胤子」であること、春日大明神のお告げによって生まれ、自分と女院(宣光門院)以外は知る人がいないこと。
③徽安門院(寿子内親王、花園天皇と宣光門院の子)を興仁、直仁の准母とすること。
④先年の立太子のときに、本当は直仁を皇太子にと思っていたが、近臣勧修寺経顕の建言を受け、興仁を皇太子にしたこと。
上記の光厳上皇の言葉を見れば分かりますが、本気で直仁親王を皇太子にしようと考えていたわけです。
光厳上皇が自らの子孫が継承するのは、崇光天皇までであり、その後は花園法皇の子である直仁親王の系統が皇位継承する様に定めたと言えるでしょう。
尚、この決定に対し崇光天皇がどの様なスタンスであったのかは不明ですが、後に我が子である栄仁親王の皇位継承を望んだ話があり「面白くない」と考えていた可能性もあるはずです。
光厳天皇と花園天皇の女性問題はなかった
ここで疑問が湧いてくるのが、何故、光厳天皇は直仁親王を天皇にしようとしたのか?という事です。
勧修寺経顕は興仁親王を後継者にしようと考えており、臣下の者達の中でも直仁親王の立太子に反対した者がいた事でしょう。
現代人の感覚でいえば、光厳天皇が叔父の花園天皇の妻に手を出すのは、許される様な行為ではないはずです。
しかし、当時の感覚では女房が複数の皇族に仕える事があり、問題にはならなかったともされています。
専門家によっては当時の宮廷では、ラブロマンスに溢れていたのではないかと考える人もいます。
現代人の感覚でいえば光厳天皇は自分を可愛がってくれた花園天皇の女性に手を出した事になり、大スキャンダルとなりますが、当時は今と感覚が明らかに違っていたのでしょう。
後醍醐天皇も先帝の女性たちを身籠らせたりもした逸話が残っています。
光厳上皇が直仁親王を立太子した理由
花園法皇への尊敬
光厳上皇が直仁親王を立太子した理由ですが、花園上皇への恩返しとする説が根強くあります。
花園上皇は当代随一と言われた程の学者であり、子供の頃から光厳院を可愛がり学問の師でもありました。
人間的にも光厳上皇は花園法皇を尊敬しており、直仁親王を皇太子に立てたとする説があるという事です。
光厳上皇は光明天皇の退位と、崇光天皇の践祚を決めた時に、足利直義に相談した話が残っており、室町幕府の了承を得ると、光厳上皇が自ら花園法皇に面会し説得したとも考えられています。
花園院は古代の聖帝の様な気質の持ち主であり、光厳上皇は花園法皇の子の直仁親王こそ、天皇に相応しいと考えたのかも知れません。
北朝と幕府の繋がりを考えて
室町幕府との関係を考えて、光厳上皇は直仁親王を皇太子に立てたとする説もあります。
宣光門院の父親は正親町実明で兄弟には正親町公蔭がいます。
正親町公蔭の妻の種子は赤橋久時の娘でもあります。
種子の姉妹として足利尊氏の正室となった赤橋登子がいるわけです。
赤橋登子は足利義詮や基氏の母親でもあり、光厳上皇は室町幕府との関係を考えた上で、直仁親王を皇太子にしたとも考えられています。
北朝と室町幕府との関係強化を望み、直仁親王を皇太子にしてもおかしくはないでしょう。
尚、光厳上皇は足利尊氏や直義と近しい立場の夢窓疎石から、帰依するなどしており、幕府との関係強化の為に直仁親王を皇太子にしたとみる事も出来るはずです。
さらに言えば、花園天皇は傍流であり、正統性を出す為にわざと「光厳上皇は直仁親王は実子」だと宣言した可能性も指摘されています。
廃太子
室町幕府で観応の擾乱が勃発すると、足利直義と足利尊氏・高師直が対立し、足利直義は失脚しました。
しかし、足利直義は足利尊氏と高師直が九州の足利直冬征伐に向かった隙をつき挙兵し、京都を奪還しています。
足利直義は南朝に降伏してはいましたが、光厳上皇と親しい関係であり、光厳上皇も足利直義に賀使を派遣した話があります。
直仁親王も自分の立太子に協力的だった足利直義であれば、安心感もあったのではないかと考えられています。
足利直義は打出浜の戦いで高師直を破り勝利しますが、最終的に足利直義は鎌倉に移動するも足利尊氏に敗れ最後を迎えました。
皇室の保護者でもあった足利直義の死に、北朝の皇族に暗雲が立ち込めたとも言えるでしょう。
足利尊氏も南朝に降伏しており、正平一統が成立していましたが、南朝の後村上天皇の軍が京都を攻撃し、足利義詮は皇族も守らずに近江に逃亡しました。
足利義詮が皇族を置き去りにした事で、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王が捕虜となり、賀名生に連行させる事になります。
室町幕府では勧修寺経顕や佐々木道誉の働きかけもあり、広義門院により後光厳天皇を践祚させています。
この時点で光厳上皇の直仁親王を天皇にしようとするプランは破綻したわけです。
これにより直仁親王は廃太子となり、数年間は南朝に拉致された状態となりました。
その後の直仁親王
南朝に拉致された三上皇と直仁親王は賀名生から、河内の金剛寺に移されました。
1355年には光明法皇のみが京都への帰還を認められています。
1357年には光厳法皇、崇光上皇、直仁親王も京都へ帰還しました。
しかし、直仁親王を天皇にしようという働きは少なく、崇光院であっても自分の子である栄仁親王を次の天皇にするべきだと主張しています。
崇光上皇であっても後光厳天皇の後は、直仁親王ではなく栄仁親王が相応しいと考えていたわけです。
後光厳天皇は1374年に崩御しますが、後継者は子の後円融天皇に決定しました。
後円融天皇は1393年に崩御し子の後小松天皇が即位しますが、この頃になると既に南北朝時代も終わりますが、直仁親王も崇光院も未だに生きていたわけです。
こうした中で直仁親王は1398年に最後を迎える事になります。
直仁親王が亡くなる少し前には、崇光院も世を去りました。
直仁親王の財産
崇光天皇が亡くなると、子の栄仁親王がいました。
栄仁親王は伏見宮家の初代当主に比せられる人物です。
足利義満は、北朝天皇家嫡流伝来の長講堂領を後小松天皇に移してしまいました。
足利義満の剛腕により、長講堂領は後小松天皇の元になったわけです。
当然ながら、栄仁親王は不満だった事でしょう。
ここで足利義満が目を付けたのは、直仁親王が持っていた所領群であり、栄仁親王に付与しています。
足利義満は長講堂領を没収した代わりに、栄仁親王に直仁親王の財産を与えたと言えるでしょう。
直仁親王の子孫がどの様になったのかは不明です。
直仁親王の動画
直仁親王のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は室町・戦国天皇列伝(戎光祥出版)、北朝の天皇(中公新書)、地獄を二度も見た天皇光厳院(吉川弘文館)をベースに作成しました。