古代オリエント

フェニキア人は古代の大海洋民族

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前フェニキア人
代表的な都市ビブロス、ティルス、シドンなど
コメント古代の大海洋民族

フェニキア人は地中海東部の古代レヴァントを拠点にし、地中海を席巻した民族です。

ビブロス、ティルス、シドンなどがフェニキア人の代表的な都市となります。

フェニキア人は海洋民族であり、交易により国を栄えさせました。

地中海には多くの植民都市を築き、交易を行っていたわけです。

しかし、フェニキア人は大帝国を築くことなく、エジプトやメソポタミアの勢力が拡大して来ると傘下に入り生き延びました。

それでも、フェニキア人はアルファベットの元の文字を作るなどしており、文明の発展に大きく貢献したと言えるでしょう。

因みに、ローマ帝国とポエニ戦争を行ったカルタゴは、元はフェニキア人の植民都市です。

フェニキア人はアラム人、ヘブライ人と共にセム語系三民族の一つに数えられています。

フェニキア人とは何者か

フェニキア人という呼称は、彼ら自身が名乗ったものではなく、ギリシア人が用いた外部呼称であったと考えられています。

彼らが自分たちを何と呼んでいたのかは、残念ながら記録が残っていません。

フェニキア人が残した文字資料の多くはパピルスに書かれていたため、風化してしまい、今日まで伝わるものがほとんどないからです。

当時の世界では楔形文字も広く使われていましたが、覚えるべき文字数が500とも数千とも言われ、習得が非常に難しいものでした。

その中で、フェニキア人が使った表音文字は簡潔で扱いやすく、後にアラム文字やギリシャ文字、さらにはアルファベットの原型へと発展していきます。

フェニキア人が世界に与えた影響の大きさは、まさにこの点に象徴されていると言えるでしょう。

フェニキア人の産業と都市

「フェニキア」という言葉はギリシア語のフォイニケに由来し、これは「深紫」を意味するフォイニクスという語と関係しています。

フェニキア人はアクギガイから紫の染料を抽出し、紫染めの織物を広く輸出していました。

しかし、この染色作業は非常に強烈な臭気を伴ったようで、古代地理学者ストラボンはフェニキアの街の臭いについて言及しています。

ユダヤ教のタルムードにも、夫が染色業に就いた場合、妻が離婚を求めてもよいと記載されるほどでした。

近年の考古学的調査でも、染織工房が街の中心から離れた場所に建てられていたことが確認されており、臭気を避けるための配慮があったと考えられています。

染色業はフェニキア都市だけの独占ではなく、ウガリトなど周辺の都市でも行われていました。

フェニキア人はセム語系のカナン人であり、彼らの都市はビブロス、ティルス、シドンなどが代表的です。

これらの都市は互いに独立した都市国家でありながら、言語や宗教はほぼ共通していました。

メソポタミア南部のシュメール人が都市国家を形成したのと似た発展の仕方をしていたと考えられています。

彼らの間ではバアル神が広く信仰されており、シリアなどでは「バアル」という名を持つ人が多かったことも知られています。

代表的な人物で言えば、フェニキアと関わり合いが深いカルタゴのハンニバルは「ハンニバアル」であり、バアルの名が入っているわけです。

フェニキア人の都市ビブロス

フェニキア人の都市の中で最初に大発展したのが、ビブロスです。

ビブロスは紀元前3000年紀から存在が確認されており、レバノン杉の輸出で儲けていました。

エジプトには良質な木材が不足しており、ビブロスとの交易を積極的に行っています。

ビブロスはヒクソスとも交易を行いました。

ヒクソスがナイルデルタから駆逐され、エジプト新王国の時代に入りました。

エジプト新王国ではナイルデルタを守る為には、レヴァント地方やシリアを征服する必要があると考え、エジプトの外の世界に進出する事になります。

エジプト第18王朝のトトメス3世ミタンニ王国と戦い勝利し、ビブロスを傘下に入れました。

ビブロスにはレバノン杉以外にも紫の織物や交易で得た珍奇な品々が揃っており、エジプトのいいお得意さんとなります。

ビブロスとエジプト新王国との間で交易が盛んになり、ビブロスとエジプトの中間にあるフェニキア人の都市であるティルスやシドンも発展していく事になります。

時代が進むとフェニキア人の都市ではビブロスよりも、ティルスやシドンの方が発展していく事になります。

エジプト第18王朝とミタンニ王国の間で婚姻関係が結ばれ、平和が保たれるようになると、フェニキア人の諸都市はさらに商売がしやすくなりました。

トトメス4世とミタンニ王アルタタマの婚姻は紀元前1415年頃とされ、特にアメンホテプ3世の時代には戦争がほとんどなく、建築事業が盛んに行われたため、フェニキア人の都市は大きな利益を得たと考えられます。

しかし、アメンホテプ3世が亡くなり、アメンホテプ4世(アクエンアテン)が即位すると状況は変わります。

アクエンアテンは国内の宗教改革に熱中し、国外の情勢に関与することが少なくなりました。

その結果、エジプトの支援を受けていたミタンニ王国は弱体化し、ヒッタイトとアッシリアが勢力を伸ばしていきます。

エジプトとヒッタイトの間で揺れる

この頃には、レヴァントにあったエジプト第18王朝の支配都市が次々と離脱し、ビブロス周辺までがヒッタイトの勢力圏に入ってしまいました。

レヴァント地方にも混乱があり、ティルスとシドンが争った話も残っています。

ビブロスの南にはシドンやティルスがあり、シドンとティルスはエジプトの勢力圏、ビブロスはヒッタイトの勢力圏という複雑な状況になっていたと考えられます。

エジプト第18王朝末期の混乱の中で、ティルスやシドンは都市としての自立性を高めていったようです。

しかし、エジプト第19王朝が成立すると、セティ1世は迅速にフェニキア南部の諸都市を勢力圏に組み込みました。

ラムセス2世の時代には建築事業が盛んに行われ、エジプトの経済が活発化したため、フェニキアの諸都市もその恩恵を受けて景気が良かったと考えられています。

カデシュ条約とフェニキア諸都市の勢力分布(紀元前13~12世紀)

紀元前13世紀に入ると、フェニキア人の諸都市はキプロスを介してエーゲ文明とも取引を行っていたと考えられています。

この時代においても、フェニキア都市の中で最も繁栄していたのはビブロスであったようです。

この頃、エジプト第19王朝とヒッタイトの間でカデシュの戦いが起こり、その後に世界最古の平和条約が結ばれました。

この条約によって、ティロスとシドンの間を流れるカルブ川が両国の国境と定められ、ビブロスとシドンはヒッタイトの勢力下に、ティロスはエジプト第19王朝の勢力下に入ったとされています。

紀元前1200年頃になると、いわゆる「海の民」の移動に伴う大規模な混乱、いわゆる紀元前1200年のカタストロフが発生しました。

ミケーネ文明やヒッタイト、ウガリトが崩壊し、アッシリアやエジプト新王国も衰退に向かう中で、フェニキア人の都市は比較的被害が少なかったと考えられています。

ティロスではこの時期にも建築活動が続いていた形跡があり、破壊の痕跡は確認されていません。

ただし、ビブロスやシドン、アルワドなどについては、この時期の考古学的資料が十分に得られていないため、詳細は不明です。

この時代にはアラム人やヘブライ人も勢力を拡大し、ペリシテ人やチェケル人といった海の民の一派とされる人々もシナイ半島やレヴァント南部に定住していきました。

フェニキア人、アラム人、ヘブライ人はいずれもセム語系の民族とされています。

鉄器時代の到来とフェニキア都市の再編

紀元前1200年頃を境に、オリエント世界は青銅器時代から鉄器時代へと移行しました。

フェニキア人という呼称が一般化したのもこの頃であり、民族が入れ替わったわけではなく、同じ人々が新たな時代において外部からそう呼ばれるようになったと理解されています。

鉄器時代になると、フェニキア都市の中ではシドンが発展しました。

ただし、ティルスはシドンを猛追し、紀元前11世紀の後半に差し掛かった頃には、シドンを上回る発展をしています。

フェニキアの歴史ある都市のビブロスも発展しています。

フェニキア人とアッシリア

紀元前1100年頃、アッシリアのティグラト・ピレセル1世は国力を回復し、ビブロス、シドン、アルワドなどのフェニキア都市から貢物を受け取ったと記録されています。

フェニキア人は大帝国を築くことはありませんでしたが、商業活動を中心とする都市国家であったため、メソポタミアやエジプトに強大な国家が現れると、その影響下に入ることが多かったようです。

ただし、ティルスについてはティグラト・ピレセル1世に貢物を献じた記録が残っていません。

ティルスだけはアッシリアに従わなかった可能性があります。

フェニキア人とチェケル人

ティルスの南方にはドルがあり、チェケル人が住んでいましたが、紀元前1050年頃に破壊の痕跡が確認され、その後の層からフェニキア人の住居跡や二色彩文土器が見つかっています。

これらの考古学的証拠から、当時のドルでは住民構成に大きな変化が生じ、チェケル人の勢力が退き、その後にフェニキア人が定住した可能性が高いと考えられています。

ただし、文献資料が乏しいため、具体的な経緯については断定できず、武力衝突によるものか、政治的・経済的な変動による移住であったのか、複数の解釈があり得る状況です。

尚、フェニキア人はチェケル人の後に、50年程ドルに住みましたが、後にはイスラエル王国のダビデ王により征服されました。

南方交易とイスラエル王国との関係

ドルのさらに南にはペリシテ人が居住していました。

フェニキア人はペリシテ人とも交易関係を築いていたと考えられています。

エジプト王朝が強勢であった時代には、エジプトの勢力圏に属する地域であればフェニキア人は比較的自由に交易を行うことができました。

しかし、エジプトが弱体化すると、南方との交易路を確保する必要が生じ、その過程でフェニキア人がチェケル人の都市ドルに進出した可能性が1部で指摘されています。

これは、考古学的にドルの破壊層の後にフェニキア人の居住跡が見られることから推測されるもので、具体的な経緯については文献資料が乏しいため断定はできません。

旧約聖書には、当時のイスラエル王国に敵意を示した存在としてビブロス、アンモン、アマレク、ペリシテ、ティルスの名が挙げられています。

イスラエル王国はダビデ王の時代にペリシテ人との戦いで勝利し、地域の勢力図は大きく変化しました。

ティルスの人々は一時的に取引先を失ったものの、その後はイスラエル王国との交易を再び活発化させたと考えられています。

エウロペ神話とフェニキア人の海洋進出

ただし、ここから先こそがフェニキア人の本領が発揮される時代だと感じられます。

ギリシア神話には、フェニキアのティルス王アゲノルの娘エウロペが、牡牛に姿を変えたゼウスに連れ去られ、クレタ島に辿り着いたという物語があります。

エウロペは後に「ヨーロッパ」という名称の語源となった人物です。

この神話が示唆するように、フェニキア人が海を越えてクレタ島を含むエーゲ海世界へ進出したことと、エウロペ神話の背景には何らかの文化的接触があったのではないかと推測できます。

フェニキア人の諸都市は、長らく大口の取引相手であったエジプトが弱体化したことで、新たな市場を地中海世界に求める必要が生じました。

こうした状況が、フェニキア人の積極的な海上進出を促し、地中海全域に交易網を広げていく契機になった可能性があります。

エウロペ神話とフェニキア人の海洋活動を結びつける説は、確証こそないものの、古代地中海世界の文化交流を考える上で非常に興味深い視点を提供してくれます。

紀元前9世紀の半ば頃になると、フェニキア人はキプロス南東部にキティオンという植民都市を築きました。

ここから、フェニキア人の本格的な海上進出、いわば彼らの大航海時代が始まったと考えられています。

旧約聖書には、イスラエル王国のソロモン王が即位した際、ティルスの王ヒラム1世が祝賀の使節を送ったと記されています。

また、ソロモン王のハーレムにはフェニキア人女性がいたという記述もあり、ティルスから王家に女性が嫁いだ可能性が示唆されています。

エトバアルの時代

ヒラム1世の時代にティルスは繁栄し世襲王朝が続きますが、エトバアルにより簒奪されました。

エトバアルは簒奪はしましたが、国の発展の為に尽力しました。

ティルスはエトバアルの時代にシドンを支配下に納め「ティルスとシドンの王」「フェニキア王」を称したとする話もあります。

それでも、アッシリアのアッシュル・ナツィルパル2世が勢力を拡大してくると、フェニキア人最大の都市であるティルスであっても、従うしかありませんでした。

尚、紀元前858年にアッシリアのシャルマネセル3世がティルスとシドンに遠征した際にも、エトバアルは同様に従属の姿勢を示しています。

エトバアルは娘のイゼベルを北イスラエル王国に嫁がせますが、イゼベルは悲劇的な亡くなり方をしました。

フェニキア植民都市の拡大と西地中海進出

エトバアルの時代は、ティルスの大発展時代であり、ビブロスの北にはボトリュス、リビアにはアウザと植民都市を建設しています。

紀元前1200年のカタストロフ以降にギリシアは暗黒時代になっており、ふるわず地中海の海はフェニキア人の独壇場だったとも考えられています。

そのフェニキア人の中心にいたのがティルスでした。

フェニキア人は地中海に多くの植民都市を築きますが、多くはティルスの植民都市だったとされています。

先にキプロスのキティオンにフェニキア人が植民都市を築いたと述べましたが、彼らはロードス島とも取引をしていた事が分かっています。

フェニキア人はクレタ島との交易にとどまらず、エーゲ海北部にも進出し、広範囲にわたって海上交易を展開していました。

エーゲ海中部やギリシア本土、さらにはシチリア島などでも取引を行い、地中海沿岸の特産品を紫の織物などと交換していたと考えられています。

サルディーニャ島にもフェニキア人の植民都市が築かれており、そこで商業活動を行っていたことが分かっています。

サルディーニャ島の住民については、海の民の一派とされるシェルデンと同系であるという説もあります。

サルディーニャ島にはヌラーゲ文明が存在し、フェニキア人が到来する以前にはミケーネ文明の勢力と交易を行っていたようです。

しかし、ギリシア世界が暗黒時代に入ると、主要な取引相手がフェニキア人へと移り変わったと考えられています。

フェニキア人の航海はさらに西へと広がり、地中海の果てとも言えるイベリア半島にまで到達しました。

彼らはイベリア半島に植民都市を築き、そこで交易を行っていたことが知られています。

イベリア半島では金、銅、錫、銀などの金属資源が豊富に採れ、フェニキア人はこれらを仕入れてオリエント世界で販売し、大きな利益を得ていました。

こうした広範囲にわたる交易活動は、フェニキア人の航海技術の高さと、地中海世界の需要を的確に捉える商業的な柔軟性を示しています。

エジプトが弱体化し、従来の大口の取引相手が不安定になった時期に、フェニキア人が新たな市場を求めて地中海全域へと進出していったことは、彼らの歴史の中でも重要な転換点であったと言えるでしょう。

カルタゴの建国

紀元前814年には、ティルス王ピグマリオンの姉妹の1人であったエリッサ(ディードー)が、カルタゴに亡命した話があります。

エリッサは夫を失ったことをきっかけに身の危険を感じ、北アフリカへ逃れ、カルタゴを建設したという伝承です。

考古学的には、カルタゴが確実に存在していたのは紀元前8世紀以降とされています。

伝承と考古学の間には一定の隔たりがありますが、フェニキア人の西方進出の象徴的な出来事として語り継がれています。

カルタゴはフェニキア本土よりも発展しました。

アッシリアに服属

紀元前745年にアッシリアではティグラト・ピレセル3世が即位し、周辺地域への遠征を活発化させました。

アッシリアが勢力を拡大する中で、ビブロスを除く北部フェニキア沿岸都市は北シリアのアラム人国家とともにアッシリアの支配下に組み込まれていきました。

そのような状況の中で、フェニキア最大の都市ティルスは、アッシリアから1定の自治と経済活動の自由を認められ、特権的な属国として扱われました。

ティルス王ヒラム2世がアッシリアに貢納物を献上した記録も残っています。

しかし、後継者のマッテン王の時代になると、アッシリアはフェニキア諸都市に対して役人を派遣し、多額の上納金を求めるようになり、負担が増したと考えられています。

紀元前734年頃までには、アッシリアはティルスやシドンなどの主要都市を除き、フェニキア沿岸のほとんどを征服したとされています。

紀元前721年に即位したサルゴン2世は、アッシリア王として初めてキプロス遠征を行い、成果を挙げました。

しかし、キプロスにはティルスの植民都市も存在していたため、アッシリアとティルスは利害が衝突し、緊張関係が生じました。

紀元前701年、アッシリア王センナケリブの時代になると、ティルスが中心となってフェニキア諸都市をまとめ、反アッシリアの動きを見せたとされています。

しかし、最終的には多くの都市がティルスから離れ、シドンを含む内陸部はアッシリアに制圧されました。

ティルス王ルリはキプロスへ逃れたものの、そこで不幸な最期を迎えたと伝えられています。

ルリの逃亡を描いたレリーフには2階建ての船が描かれており、当時のティルスの造船技術の高さを示しています。

エジプト第19王朝の海の民との戦いを描いた壁画では1階建ての船が描かれているため、ティルスの船はより耐久性が高く、長距離航海に適した構造を備えていたと考えられます。

アッシリア最盛期とフェニキアの従属

シドンは一早くアッシリアに降った事で、同じくフェニキア人都市であるティルスよりも優遇される事になります。

シドンはエトバアルが立ちアッシリアからフェニキアの大部分を任され、親アッシリア政権だったと言えるでしょう。

ティルスのバアル1世はアッシリアをよくは思っておらず、服従はしましたが、アッシリアからの独立を考えていたとみられています。

ティルスもアッシリアに従いましたが、規制を強められた事で不信感も高まりアッシリア支配に離脱を目指す様になります。

フェニキア諸都市の逆襲

エサルハドンはフェニキア諸都市の背後にエジプト第25王朝の影響を見て、エジプト遠征を行い、メソポタミアの王として初めてナイルデルタを一時的に占領しました。

この時点でもティルスは存続していたと考えられています。

しかし、病弱だったエサルハドンは亡くなり、紀元前668年にアッシュル・バニパルが即位しました。

アッシュル・バニパルの時代、アッシリアは最盛期を迎え、ティルスのバアル1世も最終的に降伏しました。

アッシュル・バニパルはエジプトのテーベを陥落させ、さらに東方のエラム王国をも屈服させ、アッシリアは最大領域に達したとされています。

この頃にはアッシュル・バニパルもすでに亡くなっており、アッシリア帝国は急速に弱体化していました。

各地で反アッシリア勢力が蜂起し、紀元前612年には首都ニネヴェが陥落します。

亡命政権が1時的に存続したものの、紀元前609年にはアッシリアは完全に滅亡しました。

アッシリアによって強制移住させられていたシドンの住民は、この時期に故郷へ戻ることが許されたと考えられています。

フェニキア人のアフリカ航海と太陽観測の記録

紀元前600年頃には、エジプト第26王朝のネコ2世がファラオとなっていました。

ネコ2世は海洋活動に強い関心を持ち、紅海とナイル川を結ぶ運河の建設を進めたほか、ギリシア人傭兵を用いてエジプト初の海軍を創設したとされています。

その中で、彼はフェニキア人に対し、紅海から南へ向かい、アフリカ大陸を回ってナイルデルタへ戻るという航海を依頼しました。

この航海はヘロドトスによって記録されており、成功したと伝えられています。

もしこの記録が事実であれば、フェニキア人はバスコ・ダ・ガマによる喜望峰到達よりも2千年以上前に、アフリカ大陸を1周したことになります。

航路はバスコ・ダ・ガマとは逆で、反時計回りであったと考えられています。

この航海は、フェニキア人の高度な航海技術を象徴する出来事としてしばしば取り上げられます。

彼らが地中海世界だけでなく、アフリカ沿岸の海域にも進出していた可能性を示す点で、非常に興味深い記録です。

ヘロドトスの記録によると、航海中フェニキア人は「いつもと反対の方向に太陽が見える」ということに気づきました。

地中海(北半球)では太陽は南の空を通りますが、アフリカ最南端(南半球)では太陽は北の空を通ります。

そのため、赤道を越えると太陽の見える方角が反転するのです。

ヘロドトスは信じがたいと述べましたが、それでもこの話を記しており、これがのちにフェニキア人がアフリカ大陸を1周した証拠となりました。

食糧に関しては、当時のフェニキア人の船は、大量の食糧を積みこめるような巨大なものではありませんでした。

そこで、彼らは秋になるとアフリカ大陸に上陸し、現地の土地を耕して穀物を撒き、春になると収穫して完全に食料を調達してから再出発するという驚異的なシステムを採用していました。

そのため、3年もの膨大な歳月を掛けてフェニキア人はアフリカ大陸を1周したと考えられています。

現在のところフェニキア人のアフリカ一周説は専門家によって意見が分かれる所でもあります。

物的な証拠が存在しておらず、解明はまだまだ先になりそうです。

フェニキア諸都市の衰退

新バビロニアのネブカドネザル2世は拡大政策を取り、フェニキア諸都市に危機が迫りました。

ユダ王国は新バビロニアの攻勢により滅亡しています。

新バビロニアに対し猛然と立ち向かったのが、ティルスでした。

ネブカドネザル2世はティルスを相手に長期戦を採用し、13年間も掛けてティルスを降伏させた話があります。

13年間も耐え凌ぐ事が出来たのは、島国のティルスの防衛力と食糧を豊富に用意する事が出来たからでしょう。

ティルスは一時王政が廃止されますが、後に復活しています。

しかし、この頃になると、カルタゴを除くフェニキア人の地中海植民都市は次第に弱体化していました。

ギリシア世界が暗黒時代から脱し、地中海に勢力を伸ばしたことで、フェニキア人の活動領域は圧迫されていったと考えられます。

アケメネス朝ペルシアの支配とフェニキア人

アケメネス朝ペルシアはメディア王国から独立すると、リディア、新バビロニア、エジプトを次々と征服し、オリエント全体を支配しました。

キュロス2世はバビロンに囚われていた人々を解放し、故郷へ帰す政策を取りました。

ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放が有名ですが、ティルスなどのフェニキア人も多く解放されたと考えられます。

初期のアケメネス朝ペルシアの統治は比較的寛大で、フェニキア諸都市は高額の税を課されることもなく、自治権も認められていました。

しかし、これは「優しさ」などでは決してありません。

ペルシアは内陸の民であり、自前の強力な海軍を持っていませんでした。

フェニキアの街を破壊して奴隷にすれば、彼らの優れた海洋技術や富は消えてしまいます。

そこで、ペルシアは「お前たちの宗教も王も認める。その代わり、我々が攻撃を仕掛ける時はお前たちも『ペルシア海軍』として命がけで戦え。そして、毎年の貢納(税金)をしっかりと納めよ」という、極めてビジネスライクな契約がなされていたのです。

カンビュセス2世の時代にはエジプト第26王朝が滅ぼされ、ペルシア人によるエジプト第27王朝が成立しました。

カンビュセス2世は次にカルタゴ遠征を計画しましたが、フェニキア人が反対したため中止したとされています。

ペルシア海軍がフェニキア人に依存していたことが、その理由であったと考えられます。

ペルシア戦争とフェニキア海軍の活躍と衰退

アケメネス朝ペルシアの時代に最も繁栄したフェニキア都市はシドンであったとされます。

そして、アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリス連合によるペルシア戦争が始まります。

ペルシア海軍の主力を担ったのはフェニキア人であり、ヘロドトスによれば、三段櫂船の四分の一はフェニキア人とシリア人が提供したものでした。

シドン王テトラムネスト、ティルス王マッテン、アラドス王メルバロスらが自ら艦隊を率いて参戦したと記録されています。

クセルクセス1世との作戦会議では、上座にシドン、次にティルスが座ったとされ、フェニキア人の地位の高さがうかがえます。

紀元前480年のサラミスの海戦ではギリシア側が勝利しました。

同時期、シチリア島ではカルタゴとギリシア系都市の間でヒメラの戦いが起こり、こちらもカルタゴが敗れています。

この時カルタゴが動いたのは、フェニキア本土のティルスからの要請があったためだとする説も存在します。

ペルシア戦争においてフェニキア海軍がギリシア海軍に敗れたことは、フェニキア人の地中海における影響力が低下する一因となったと考えられています。

アケメネス朝ペルシアは当初こそ寛容な統治を行い、フェニキア諸都市も繁栄していましたが、時代が下るにつれて状況は変化していきました。

アルタクセルクセス3世の時代には、フェニキア諸都市に対する要求が強まり、シドンが中心となってペルシアに対抗する動きが生まれました。

しかし、紀元前350年頃、シドンはアケメネス朝ペルシアの軍によって制圧され、これを目の当たりにした他のフェニキア都市は慎重な姿勢を取るようになったとされています。

フェニキア文明の終焉とヘレニズム時代の変容

マケドニア王国のアレキサンドロス大王が東方遠征を行いイッソスの戦いで、アケメネス朝ペルシアの軍を破りました。

フェニキア人の諸都市はアレクサンドロス大王に降伏しますが、ティリスは迎撃する事になります。

これによりティルス包囲戦が始まりました。

ティルスは7か月間も耐え抜きますが、結局は降服しました。

ティルスの陥落を以てフェニキア人の滅亡とする場合もあります。

フェニキア人とヘレニズム文化

しかし、フェニキア人が完全に姿を消したわけではありません。

ビブロスやシドンなどの都市には引き続きフェニキア人が居住しており、文化的伝統も継承されていました。

アレクサンドロス大王は東方遠征によって大帝国を築きましたが、紀元前323年に急逝し、その後継者争いの中でヘレニズム文化が広がると、フェニキア諸都市もその影響を受けることになります。

フェニキア諸都市はまずプトレマイオス朝エジプトの支配下に入り、後にはセレウコス朝シリアの統治を受けました。

この頃からフェニキア本土の都市は徐々に停滞していきますが、一方でカルタゴは西地中海で勢力を拡大し続けました。

しかし、カルタゴもやがてローマとのポエニ戦争に敗れます。

第二次ポエニ戦争でハンニバルが失脚し、セレウコス朝のアンティオコス3世のもとへ亡命する際、ティルスに立ち寄ったという記録が残されています。

ヘレニズム時代においても、フェニキア諸都市は一定の自治を保っていたと考えられています。

セレウコス朝の衰退とフェニキア都市の独立化

紀元前2世紀半ばになると、セレウコス朝内部で混乱が続き、紀元前129年にアンティオコス7世が戦死すると、王朝の解体が加速しました。

政争に敗れたデメトリオス2世はティルスに逃れましたが、そこで命を落としています。

これはティルスが自立性を高め、セレウコス朝の権威が及ばなくなっていたことを示しています。

ティルスではセレウコス朝の王名を刻まない貨幣が発行され、シドンでも同様の動きが見られました。

アラドス、ティルス、シドンといったフェニキア諸都市は、事実上セレウコス朝から独立した状態になっていたと考えられます。

弱体化したセレウコス朝は、これを阻止する力を持っていませんでした。

紀元前1世紀になると、カルタゴやマケドニアなどもローマに征服され、地中海世界はローマの支配下に組み込まれていきます。

紀元前64年、ポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼすと、フェニキア諸都市もローマ帝国の一部となりました。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細