名前 | 佐竹義篤(さたけよしあつ) |
生没年 | 1311年ー1362年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:佐竹貞義 母:海上胤泰の娘 |
正室:小田知貞の娘 側室:梅ノ局 | |
兄弟:月山周枢、小瀬義春、義資、義直、義冬、山入師義 | |
子:佐竹義宣(義香)、小場義躬、石塚宗義、 | |
乙王丸、大山義孝、藤井義貫(義實)など | |
コメント | 侍所頭人になるなど幕府中枢でも活躍した |
佐竹義篤は九代目佐竹氏の当主であり、南北朝時代に活躍しました。
南北朝時代の初期には、南朝の瓜連城を陥落させるなどの功績を挙げています。
観応の擾乱では足利直義に与しており、父親の佐竹貞義が足利尊氏に味方した事で、佐竹氏は分裂しました。
武蔵野合戦が勃発すると、佐竹義篤は足利尊氏の元に馳せ参じ功績を挙げ信頼を得る事になります。
後には在京し侍所頭人になるなど、中央でも活躍しました。
晩年は常陸に戻り最後を迎えています。
尚、佐竹氏の当主で考えると、十六代目の当主の名前も佐竹義篤ですが、今回は九代目で南北朝時代に活躍した佐竹義篤の解説です。
足利尊氏に従う
足利尊氏は後醍醐天皇の勅許なしで東国に進軍し、中先代の乱を鎮圧しました。
後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞に命じて討伐させています。
足利尊氏は反撃に出ますが、この軍の中には佐竹義篤もいました。
佐竹貞義は佐竹義篤だけではなく、息子の小瀬義春や山入師義も尊氏の軍に加わらせています。
この時の佐竹氏は武家方でした。
足利尊氏は新田義貞を箱根竹ノ下の戦いで破ると、近畿に進撃しています。
瓜連城の攻略
足利尊氏は北畠顕家に近畿で敗れると、九州に落ち延びますが、佐竹義篤は同道せず弟の山入師義が尊氏に従いました。
佐竹義篤は本国の常陸におり、南朝の重要拠点である瓜連城を攻撃する事になります。
南朝は楠木正成の一族である楠木正家を東国に派遣し、瓜連城に入りました。
佐竹氏の本拠地である太田城から瓜連城は近い距離にあり、北朝を支持する佐竹氏にとっても厄介な存在だったわけです。
尚、この時の佐竹一族も一枚岩ではなく、佐竹幸乙丸が楠木正家に味方し敵対しました。
瓜連城の戦いの初戦で弟の佐竹義冬が戦死し、大打撃を受けて撤退する一幕もありました。
しかし、佐竹義篤は建武三年(1336年)七月に陸奥好島荘の伊賀盛光などを武生城に招集し、佐竹義篤は再び瓜連城の攻略を目指す事になります。
伊賀盛光は大内義高(佐竹貞義の弟)の指揮下で花房山、大方河原で楠木正家の軍と戦闘になり、佐竹義篤も小田治久や広橋経泰らを岩出河原で撃破しました。
さらに、佐竹義篤は瓜連城を陥落させるなど、大きな手柄を挙げています。
佐竹義篤はさらに軍を南下させ小田治久が籠る小田城を攻撃しますが、こちらは抜く事が出来ませんでした。
瓜連城を陥落された南朝では危機感を抱き、北畠顕家が多賀国府から伊達霊山城に移るなどしています。
足利尊氏は佐竹氏の佐竹貞義や佐竹義篤の忠義に応え建武四年(1337年)三月に雅樂荘の地頭職を与えています。
佐竹氏にとってみれば、本拠地がある奥七郡意外に僅かではありますが、勢力を伸長させました。
常陸合戦
南朝の陸奥将軍府の北畠顕家は第二次上洛戦争において、高師直に敗れ石津の戦いで戦死しました。
奥州では南朝の軍と小瀬義春が戦った記録が残っています。
後醍醐天皇は東国に北畠親房を派遣し、勢力挽回を図り常陸合戦が勃発しました。
室町幕府は北畠親房討伐の為に、高師冬を派遣し、高師冬は瓜連に駐屯した話が残っています。
この時に、佐竹義篤が高師冬に従い小田城の攻略に参加したとも言われていますが、比較的新しい史料ばかりであり実情は不明です。
常陸合戦では結城親朝は南朝に味方する様な素振りを見せながらも、白河近辺から動かず、態度を不鮮明にしていました。
仮に結城親朝が南朝に味方すれば、一気に瓜連城を陥落させ、その勢いで太田城に迫る可能性が高く、佐竹氏は動けなかったのが実情だとも考えれています。
常陸合戦で北畠親房は春日顕国と共に奮戦しますが、小田治久も結城親朝も南朝に味方し、北畠親房は関城が落城した事で、吉野に戻りました。
観応の擾乱
足利直義と高師直の政争が頂点に達し、室町幕府内で観応の擾乱が起きました。
高師直は御所巻により直義を失脚させますが、足利直義が挙兵すると多くの者が味方したわけです。
佐竹義篤の子で幼少の佐竹義香が直義に味方しており、佐竹義篤も直義派だったと考えられています。
小瀬義春や小瀬義盛も直義派となりました。
ただし、佐竹氏当主の佐竹貞義や弟の山入師義は足利尊氏に従い戦っており、佐竹氏は分裂したと言えるでしょう。
足利尊氏も足利直義も自陣営に佐竹氏を引き込むために動いており、こうした結果が佐竹氏の分裂を招きました。
足利直義は東国で戦う佐竹義篤や小瀬義春に、感状を発行しています。
打出浜の戦いで高師直を破り足利直義は勝利しますが、足利義詮との対立もあり東国に移動し、最終的に足利尊氏に薩埵山の戦いで敗れました。
武蔵野合戦
観応の擾乱で直義派に属した事で、佐竹義篤には重い処罰が下る可能性がありました。
ここで武蔵野合戦が勃発し、佐竹義篤は足利尊氏に従い奮戦する事になります。
武蔵野合戦で佐竹義篤は足利尊氏に与した事で、観応の擾乱で直義に味方した事はチャラになったと考えられています。
佐竹義篤が足利尊氏に処罰されたという話しはありません。
佐竹義篤は足利尊氏からの信頼を取り戻しました。
武蔵野合戦は佐竹氏にとっては幸運だったと言えるでしょう。
尚、武蔵野合戦の後に佐竹貞義が亡くなっており、佐竹義篤が正式に後継者となりました。
侍所頭人
文和三年(1354年)に佐竹義篤は侍所頭人になり上京した事が分かっています。
侍所頭人は京都の治安維持を担当する部署であり、佐竹義篤は責任者の一人になったと言えるでしょう。
京都は山城国にあり、山城の守護も兼ねていました。
こうした事情もあり山城国内の東寺領荘園、拝師荘、植松荘、木幡荘などの相論にも対応しています。
尚、佐竹義篤は上京していた時期に、執事の仁木頼章と口論になった話が残っています。
口論になってしまった原因は不明です。
文和東寺合戦
文和四年(1355年)に南朝の武将となった足利直冬や山名時氏らが京都に侵攻し、文和東寺合戦が勃発しました。
文和東寺合戦では市街戦となりますが、最終的に足利尊氏が勝利し直冬は八幡に退いています。
この後に、佐竹義篤は七条西洞院に向かい山名氏や石塔氏の軍と戦闘になりました。
佐竹義宣への譲状
文和東寺合戦の頃に、佐竹義篤は嫡子の佐竹義宣に譲状を発行した話が残っています。
この時に佐竹義篤の所領は四カ国に及び、越中や加賀などの北陸にも所領を持っていた事が確認出来ています。
佐竹義篤は侍所頭人を務めており、功績により恩賞として所領を賜わったのでしょう。
佐竹義篤の最後
佐竹義篤は後に常陸に戻る事になります。
康安二年(1362年)の正月に、一族の様々な者や寺院に対し譲状を発行しました。
この数日後に佐竹義篤は亡くなっています。
佐竹義篤が没すると佐竹義宣が後継者になりました。