室町時代

春日顕国は東国に散った隠れた名将

2025年3月5日

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宮下悠史

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名前春日顕国
別名春日顕時、春日中将、春日侍従
生没年生年不明ー1344年
時代南北朝時代
一族父:源顕行 弟:信経
年表1344年 大宝城の戦い
コメント戦には滅法強かったと感じる

春日顕国は南朝の武将として主に東国で活躍しました。

北畠顕家の奥州軍に加わったり、常陸合戦では北畠親房の右腕的な存在であり、軍事でも存在感を示しています。

常陸合戦敗北後に北畠親房は吉野に戻りますが、春日顕国は東国に残り戦い続けています。

大宝城の奪還に成功しますが、結城直光に敗れました。

後に甥の源信世と共に処刑されており、最後を迎えています。

春日顕国は松井優征先生が描く逃げ上手の若君にも登場し知名度はかなり上がった事でしょう。

春日顕国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

春日顕国の出自

春日顕国は村上源氏に属する源顕行の次男として生まれました。

同じく村上源氏の北畠親房とは同年代だったのではないかとされています。

父親の源顕行は最終的に正三位にまで出世しており、廷臣として活動していた事も分かっています。

春日顕国も朝廷に仕え侍従となりました。

ただし、朝廷での春日顕国の記録は殆ど存在しておらず、僅かに懐良親王に従い九州で奮戦した五条頼元の日記に名前が見える程度です。

こうした事情から、京都での春日顕国は決してメジャーな人物ではなく、鎌倉幕府が滅亡しなければ普通に廷臣として生涯を終えたと考えらえています。

しかし、時代は後醍醐天皇による倒幕が成され南北朝時代に突入する事になり、春日顕国の名は世間に知られる事になります。

尚、春日顕国は甥の源信世と行動を共にする事になります。

東国への下向

建武二年(1335年)に足利尊氏が建武政権から離脱し、新田義貞を破り京都に進撃しました。

この時に奥州から北畠顕家が到着し、足利尊氏は戦いに敗れ九州に落ち延びる事になります。

北畠顕家は足利尊氏を駆逐した事で奥州に戻りますが、この時に「春日少将」なる人物が同行した事が分かっており、これが春日顕国だと考えられています。

春日顕国は東国に下向しました。

結城親朝の手紙が残されており、内容から考えても関東の南朝勢力と奥州にいる北畠顕家の間を取り次ぐのが役目を担わされたとされています。

これにより春日顕国の東国での活動が始まったと言えるでしょう。

東国での活動

東国に渡った春日顕国は北朝側の資料にも春日侍従の名で登場する様になります。

春日顕国が下野の小山氏を攻撃した記録も残っています。

さらに、春日顕国は下野から常陸に活動拠点を移しました。

北朝の烟田時幹によると春日顕国が率いている軍勢を「奥州前国司勢」と呼び、春日顕国を「大将軍」としています。

春日顕国は既にこの時には、一軍を任される様な武将になっていました。

春日顕国は公家出身にも関わらず、高い軍事能力を持ち周りにも認められていたのでしょう。

陸奥将軍府の北畠顕家も頼りにしていたのでしょう。

近畿への転戦

後醍醐天皇は吉野に移り南北朝時代が始まりました。

近畿では南朝は湊川の戦いで楠木正成を失うなど圧倒的に不利な状態であり、後醍醐天皇は北畠顕家に上洛命令を出しています。

北畠顕家は奥州の混乱を危惧しながらも、上洛戦争を起こしますが、春日顕国は常陸の勢力を牽制しました。

常陸の佐竹氏などの勢力の牽制をしたという事なのでしょう。

牽制の役目が果たせたと感じたのか、春日顕国は北畠顕家率いる奥州軍に合流しました。

太平記では北畠顕家の副将が弟の北畠顕信となっていますが、当時の書状などから北畠顕信は伊勢で北畠親房と共に行動しており、実際には北畠顕家軍の副将は「春日少将」こと春日顕国だったと考えられています。

南朝の危機

春日顕国は奥州軍の副将格であり、青野原の戦いや般若坂の戦いなどでも奮戦しますが、石津の戦いで北畠顕家南部師行が戦死しました。

北畠顕家死後に春日顕国は冷泉持定、家房らと共に八幡に入りますが、結局は戦いに敗れて吉野に逃れています。

この時期に北陸では藤島の戦いで不慮の事故により新田義貞が亡くなり、南朝は窮地に陥りました。

南朝では軍事面の体制を立て直す必要が出てきたわけです。

ここで春日顕国は北畠顕信の配下となっています。

後醍醐天皇は結城宗広の策を採用し、各地の親王及び南朝の重臣を派遣する事になります。

北畠親房や北畠顕信、宗良親王、義良親王、春日顕国らは東国を目指す事になります。

しかし、嵐により船が難破し宗良親王がなんとか遠江に辿り着き、北畠親房や伊達行朝は常陸に到達しますが、義良親王、北畠顕信、春日顕国の船は伊勢に押し戻されました。

この後に春日顕国は吉野に戻ったと考えられています。

後醍醐天皇は大船団が壊滅したショックなのか、間もなくして崩御してしまい義良親王が後村上天皇として即位する事になります。

南朝の大黒柱であった後醍醐天皇が崩御し、名将たちも世を去った事で南朝に危機が訪れたわけです。

再び東国に下向

春日顕国ですが、この辺りから北畠顕信とは別行動をとる様になったと考えられています。

1339年頃までには下野国に入った事が結城親朝への手紙から分かっています。

尚、春日顕国の書状が残されており、下野国に入った頃には左中将になってた事が明らかになっています。

春日顕国は再び東国に下向したわけです。

下野で転戦

下野に入った春日顕国の活動が北畠親房が結城親朝に送った袖判御教書に掲載されています。

それらによると、春日顕国は東真壁郡の八木岡城、益子城を陥落させ、桃井氏の一族がいた河内郡の上三川城、都賀郡の箕輪城を落し、飛山城や宇都宮城の軍勢を破ったとあります。

位置的に考えて北畠親房がいる小田城と白河結城氏の中間に位置する地点であり、北朝方に分断されない為の手はずだったのでしょう。

春日顕国の軍事行動は南陸奥との連絡を容易にする為の策でもあったはずです。

さらに、南朝に与する関氏、下妻氏、真壁氏、伊佐氏との連携も強化する結果となりました。

補給に苦しむ

下野の戦いで春日顕国は戦果を挙げたと言ってもよいでしょう。

室町幕府では北畠親房や春日顕国らに対処する為に、高師冬を派遣しました。

高師冬は駒館の勢力を攻撃し、駒館を救う後詰の軍として春日顕国が救援に向かいました。

春日顕国は駒館の救援には向かいましたが「手元に馬が全くない」と北畠親房に物資の不足を告げています。

北畠親房は白河結城氏の結城親朝に馬を送るように依頼した事が分かっています。

春日顕国が下野の戦いで何度も勝利しながらも、補給に苦しんでいた様子が伺えるはずです。

駒館も高師冬により陥落し、春日顕国は小田城に入る事になります。

戦果を挙げながらも補給に苦しんだ結果として、小田城の北畠親房と合流したのでしょう。

北畠親房からの信頼

1341年に北畠親房は堺小三郎や大塚氏ら南朝の救援に向かって欲しいと、結城親朝に依頼しました。

この手紙の中で北畠親房は「こちらも春日顕国を出陣させるつもりだ」と記述しています。

北畠親房の手紙の内容から春日顕国は小田城の中でも、一方の軍事司令官としても役割があった事が分かるはずです。

下野での戦いを評価されており、北畠親房も一軍を任せる事が出来ると判断したのでしょう。

しかし、常陸合戦では物量で北朝が上回っており、南朝の勢力は各地で押される事になります。

小田城内の物資が不足

北朝でも高師冬の軍隊が武士たちの自己負担で出来ており、有力守護の佐竹氏や小山氏の助けが少ないなどの問題もありましたが、それ以上に南朝は苦しかったわけです。

南朝の武将たちは各々の城に籠り打って出る事が出来ず、春日顕国が救援に向かった事も分かっています。

南朝では期待していた結城親朝が動かず、北畠親房が大量に手紙を送っただけではなく、春日顕国も常陸や下野の情勢を伝え、出兵を促しました。

しかし、結城親朝は最後まで南朝の為に動く事はありませんでした。

北畠親房は結城親朝に「馬の援助」を依頼しており、過去の春日顕国の様に小田城内でも馬や物資が不足し苦しい立場となっていたわけです。

尚、この時期に春日顕国は、春日顕時に改名したともされています。

大宝城に移る

1341年11月になると小田治久が北朝への降伏を決断しました。

北畠親房の言葉によれば小田治久が城内に北朝の軍を引き入れようとした事で、城を脱出したとあります。

北畠親房は関宗祐の関城に入り、春日顕国は興良親王と共に大宝城に入ったとあります。

現在では存在していませんが、当時は大宝沼があり関城と大宝城は船での移動が可能でした。

小田治久が北朝に寝返った事で、常陸南朝はさらに苦しい立場となりますが、北畠親房は結城親朝に望みを託し手紙を送り続ける事になります。

尚、これらの戦いを関城・大宝城の戦いとも呼ばれています。

関城・大宝城の戦い

春日顕国は興良親王と共に大宝城に移りますが、高師冬率いる幕府軍は攻撃を仕掛けてきました。

三戸師親や大平氏ら武蔵や常陸の軍勢が城の南を奪取しようと攻勢を掛けますが、春日顕国や一条中将らが撃退しています。

しかし、幕府軍は村田四保城(布川神社付近)を陥落させました。

高師冬としては大宝城と伊佐城、真壁城との連携を断つのが狙いだったのでしょう。

さらに、高師冬は大宝沼に乱杭を打つなど北畠親房(関城)と春日顕国(大宝城)の連携を困難にさせていきます。

ただし、一時資料で春日顕国は土岐頼遠が光厳上皇の牛車に矢を射かけた事や、足利尊氏や直義の生母である上杉清子が亡くなった事を知っており、完全に孤立していたわけでもないのでしょう。

興良親王が去る

興国四年(1343年)になると、興良親王が小山朝郷の元に奔る事件が勃発しました。

興良親王が去った背景には、北畠親房が別の皇族を迎え入れようとした為だとも伝わっています。

共に戦っていた興良親王が去った話を聞いた春日顕国が、どの様に思ったのかは不明です。

それでも、南朝は劣勢ながらも一枚岩になれなかった象徴的な事件でもあります。

春日顕国の奮戦

春日顕国や北畠親房は苦しい戦いが続きますが、こうした中で春日顕国は奮戦し下総結城氏の結城直祐や佐竹氏の一族を討ち取る功績を挙げました。

形勢が悪い中でも春日顕国は武勇に優れ功績を挙げたと言えるでしょう。

ただし、局地戦で勝利しても大勢を覆す事が出来ず事は出来ず、引き続き結城親朝に使者を派遣し援軍要請しています。

勝機が見出せず苦しい籠城戦が続きました。

常陸合戦の敗北

春日顕国や北畠親房が期待していた結城親朝ですが、石塔義房や高師冬の要請もあり北朝への支持を鮮明にしました。

関城・大宝城の戦いで既に城内は限界であり、結城親朝の北朝支持は痛恨の一撃だったはずです。

1343年11月に関城及び大宝城は陥落しました。

この戦いで関宗祐と子の関宗政が戦死しただけではなく、下妻政泰らも亡くなっています。

常陸合戦は北朝の勝利で幕を閉じました。

筑波郡に身を隠す

常陸合戦が終わると北畠親房は吉野に戻りますが、春日顕国は源信世と共に筑波郡に身を隠す事になります。

筑波郡の多くは小田氏の所領でしたが、この中に南朝に心を寄せる者がおり、春日顕国を庇ったとも考えられています。

春日顕国は諦めておらず、東国での勢力挽回を考えたのでしょう。

沼田城を攻撃

1344年3月になると春日顕国と源信世は挙兵し、馴馬沼田城を攻撃しました。

沼田城は過去に南朝の勢力でしたが、北朝に奪われており城の奪還を願っての挙兵だったのでしょう。

しかし、宍戸朝郷の攻撃を受けると、いとも簡単に敗れて敗走しています。

大宝城の戦い

沼田城の戦いで敗れた春日顕国ですが、直ぐに大宝城を攻撃しました。

小貝川を上り大宝城に至ったのでしょう。

春日顕国は大宝城の構造を分かっており、大将の下妻政所らを討ち取りました。

常陸合戦で破れた数カ月後には、大宝城を取り戻した事になります。

この時に春日顕国は大宝城に火を放ったと考えられており、大宝八幡宮が全焼したと伝わっています。

これにより城の防備がかなり弱体化したわけです。

北朝に与する下総結城氏の結城直光が大宝城の奪還に動き出す事になります。

結城直光は過去に春日顕国が討ち取った結城直祐の兄となります。

春日顕国は大宝城は奪い返しましたが、自軍の放火もありボロボロの状態で、結城直光と戦う事になります。

当然ながら大宝城は再度落城し、春日顕国と源信世は捕虜となりました。

春日顕国は村田阿波守により捕虜になったと伝わっています。

春日顕国の最後

捕虜となった春日顕国は甥の源信世と共に処刑される事になります。

春日顕国と源信世の首は京都に移送され、六条河原に晒されました。

春日顕国の享年は五十代後半から六十代前半だと考えられています。

東国で戦い続けた生涯だったと言えるでしょう。

尚、足利尊氏が薩摩の伊作宗久に送った書状が残されており「春日顕国を討ち取り東国は平和になった」と記述されています。

足利尊氏の手紙から春日顕国が如何に室町幕府にとって危険人物かが分かるはずです。

春日顕国の動画

春日顕国のゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成してあります。

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