西周

秦仲は戎の地で亡くなった

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宮下悠史

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名前秦仲(しんちゅう)
生没年生年不明ー紀元前822年
時代西周時代
勢力
一族父:公伯 子:荘公など
主君周の厲王宣王
年表紀元前845年 秦君として立つ
紀元前824年 大夫となり西戎を討つ
紀元前822年 戦いに敗れて戦死
コメント西戎の反撃により世を去る

秦仲は西周時代の人で、公伯の子となります。

秦仲は周の厲王の時代に秦の後継者となりました。

周の宣王の時代になると、大夫となり西戎を討つ事になります。

しかし、西戎の反撃により最後を迎えました。

秦仲が亡くなると、荘公を含む五人の子が西戎を破る事になります。

秦仲は西周時代に周の厲王、共和、周の宣王の治世を23年も生きた人ではありますが、の本拠地がある西方では戎との戦いが日常の様に起きていたという事なのでしょう。

今回は史記だけではなく、後漢書・西羌伝などの記述も合わせて解説します。

混乱の時代

秦の公伯が亡くなると、秦仲が後継者となります。

史記の秦本紀によると、秦仲が秦君となり、三年が経過すると周の厲王が無道であり、諸侯の中で背く者が多かったと言います。

周の厲王の時代には社会は行き詰まりを見せており、混乱した時代でもありました。

周の厲王は自ら将となり、戎を討つ等もしていますが、社会は混乱し背く者が多かったわけです。

こうした中で西戎も西周王朝に背くようになり、犬丘の大駱の一族を滅ぼしたと言います。

後漢書の西羌伝には戎狄の侵略があり、一族を殺害したとあります。

戎が秦仲の一族を殺害したと読み解く事が出来るはずです。

秦仲の時代は西周王朝と戎の間で、激戦を繰り返した時代でもあったのでしょう。

気温の低下により農耕民族も遊牧民も食料が不足し争ったとみる事も出来ます。

秦仲の戦死

史記によると周の宣王が即位すると、秦仲を大夫として西戎を討たせました。

周の宣王が秦仲を大夫として西戎を討たせた年は、史記には書かれていません。

ただし、竹書紀年に拠る後漢書・西羌伝にも周の宣王が西戎を討った記録があり、宣王の四年(紀元前824年)だとあります。

しかし、西戎の逆襲を受けて秦仲は戦死しました。

史記によると秦仲が立って23年で戎の地で亡くなったと言います。

後漢書の西羌伝の記述と合わせて考えると、紀元前824年から秦仲と戎との間で激闘が始り、秦仲は紀元前822年に世を去った事になります。

しかし、秦仲の遺志を継ぐ者がおり、それが五人も息子となります。

五人の息子は戎を討ち、最終的に秦の荘公が後継者になりました。

先代:公伯秦仲次代:荘公

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