武蔵野合戦は関東で起きた足利尊氏と南朝や旧直義派の戦いを指します。
観応の擾乱では正平一統により、室町幕府は南朝に降伏しました。
しかし、南朝では正平一統を破棄し京都に侵攻し、それと同時に関東では足利尊氏に戦いを挑みました。
京都にいた足利義詮は近江に避難しますが、足利尊氏は武蔵野合戦を行い各地で激闘があり、最終的に勝利しています。
尚、武蔵野合戦は南北朝時代でも激しく激突した戦いであり、どちらが勝ってもおかしくはないとする意見もあります。
武蔵野合戦の始まり
観応の擾乱が終わると南朝は正平一統を破棄し、近畿と関東の両方で攻勢に出ました。
正平七年(1352年)に閏二月十五日に南朝の新田義興、義宗、脇屋義治らが、故郷とも言える上野で挙兵しました。
新田氏の軍は上野を平定すると、武蔵に侵入し鎌倉を目指しています。
足利尊氏は武蔵国神奈川に移動し、新田義宗らも足利尊氏の方に軍を進めました。
南朝の宗良親王も信濃で挙兵し碓氷峠に軍を進め、陸奥の北畠顕信も白河関に移動しました。
これが武蔵野合戦の始まりでもあります。
足利尊氏の奮戦
武蔵野合戦では足利尊氏が武蔵国矢口に移動し、新田義興は関戸に移りました。
足利軍と新田軍は人見原・金井原で戦いとなります。
この戦いで奮戦したのが薬師寺公義であり、京都にまで話が伝わり洞院公賢も日記に書き示しています。
足利尊氏が勝者となり、新田義興は鎌倉方面に退きました。
この時に北条時行も鎌倉に入り、自身三度目の鎌倉入りとなります。
この後に新田義興と北条時行は三浦半島に向かったと、鶴岡社務記録にあります。
足利尊氏は転戦し宗良親王や新田義宗らと、武蔵国小手指原・入間河原・高麗原で戦いました。
小手指原では畠山国清らが戦い、高麗原・入間河原では足利尊氏、仁木頼章、薬師寺公義らが出陣しています。
太平記では、これらの戦いで足利尊氏は石浜まで撤退し、切腹するなど言い出した話もありますが、仁木義長が戦巧者ぶりを発揮し、尊氏方が勝利しました。
新田義興の奮戦
三浦半島に赴いていた新田義興が三浦高通の協力を得て鎌倉を攻撃しました。
新田義興の軍と南宗継、南宗直、石塔義基らが交戦し、新田義興が勝利しています。
石塔義基は石塔頼房の兄とされていますが、尊氏派として戦っています。
戦いに敗れた南宗継らは、足利尊氏がいる石浜に撤退しました。
武蔵野合戦では南朝の軍も奮戦していた事が分かるはずです。
笛吹峠の戦い
武蔵野合戦の最終決戦が笛吹き峠の戦いだと言われています。
足利尊氏の元には関東の外様武士が多く集まったと伝わっています。
新田軍は南朝の征夷大将軍の宗良親王を総大将とし、旧直義派の上杉憲顕が加わるなどしました。
笛吹峠の戦いは激戦であったとも言われていますが、足利尊氏が勝利し新田義宗は越後、上杉憲顕は信濃に逃れています。
武蔵野合戦では足利尊氏が勝利しますが、かなりの激戦であり、どちらが勝ってもおかしくは無かったと言います。
尚、武蔵野合戦が起きた頃には、正平一統は破棄されており、足利尊氏は元号を南朝の正平から、北朝の観応に改めました。
因みに、武蔵野合戦の翌年である文和二年(1353年)五月に鎌倉の龍口で北条時行、長崎駿河四郎、工藤二郎が処刑された記録があります。
北条時行が世を去ると、北条氏の残党の活動はほぼ無くなりました。
北条氏の残党の蜂起が消えたのも、観応の擾乱や武蔵野合戦での影響とも考えられています。