高師兼は南北朝時代に活躍した人物であり、室町幕府の三河守護にもなっています。
高師直の一族でもあり三河の辺りで活動したり、在京したりもしています。
東寺最勝光院領遠江国村櫛荘の地頭職になりますが、年貢を納めない問題を起こしています。
高師直と共に出陣したりしていますが、観応の擾乱での一幕である打出浜の戦い後に世を去りました。
高師兼の出自
高師兼は高師春の子であり、従弟にあたる人物となります。
ただし、高師直の妹が母親でもあり、高師直の猶子にもなっていました。
血縁関係や立場的にも高師直に非常に近しい人物だったと言えます。
官位に関しては五郎兵衛尉、尾張守、刑部大輔などになっています。
三河に在国
建武三年(1336年)二月に足利尊氏や直義は京都に進撃しますが、形勢は不利であり九州に逃れる事にしました。
この時に足利直義の配下に野本朝行がおり、摂津国兵庫で直義は船に乗りますが、野本朝行は気付かずにはぐれてしまったわけです。
野本朝行は仕方なく京都に戻り三河国に下向しますが、何度も落武者狩りにあった話があります。
野本朝行の証人になった人物として、高五郎兵衛尉(高師兼)と高美作太郎(高師親)が挙げられています。
この事から建武の乱の頃には、高師兼が三河のあたりにいたと考えられます。
三河には足利一門の吉良貞家もおり、共闘していたのでしょう。
尚、梅松論では湊川の戦いで楠木正成を討った武将として、高尾張守の名が挙げられています。
この時点で尾張守は高師泰でしたが、高師泰は越後守と呼ばれるのが普通であり、楠木正成を討ったのは高師兼もしくは、高師業だったのではないかと考えられています。
楠木正成を討った人物が高師兼の可能性も残っているという事です。
三河守護を務める
建武四年(1337年)から高師兼が三河守護になった事も分かっています。
ただし、三河守護といっても現地に下向したわけではなく、基本は在京していた事が分かっています。
三河守護の座は、その後に同族の南宗継に譲りますが、康永二年(1345年)から観応二年(1351年)頃まで、三河守護に在任していたと考えられています。
武蔵では高師重、南宗継、高師直と高一族で長く務めていますが、基本的に高一族は短期間の守護で終わるケースが多く、高師兼の三河守護在任などは異例のケースです。
さらに、三河には高一族の所領が多く固まっていただけではなく、足利将軍家の所領も多くありました。
高師兼の三河守護就任は、足利尊氏から高い信頼を得ていたと考えられています。
尚、康永元年(1342年)には天龍寺落慶供養において、山名時氏が侍所頭人として先陣を務めますが、高師兼は隋兵となっています。
三河で奮戦
当時の三河守護は決して楽な場所ではありませんでした。
陸奥将軍府の北畠顕家が上洛する時に、通るのが三河だったわけです。
高師兼が三河守護になった翌年である建武五年(1338年)には、北畠顕家の第二次上洛戦争が勃発しました。
幕府軍は青野原の戦いで敗れていますが、高師泰が近江通過を阻止しており、北畠顕家の上洛戦争では高師兼も参戦している事が太平記にも書かれています。
太平記や難太平記には暦応二年(1339年)に高師泰が尾張守護となっており、高師兼は共に遠江の鴨江城を攻撃し陥落させた話が掲載されています。
年貢を支払わない高師兼
高師兼は暦応元年頃から東寺最勝光院領遠江国村櫛荘の地頭職を務めていました。
しかし、高師兼は本家東寺最勝光院に年貢を納めなかった話があります。
当然ながら寺社側は幕府に提訴し、光厳上皇が院宣を発行し、幕府引付頭人奉書により、年貢の納入を求められますが、高師兼が年貢を支払う事はありませんでした。
康永三年(1344年)には足利直義の裁許下知状が発行されますが、高師兼は年貢を支払わなかったとされています。
貞和四年(1348年)になって漸く支払う素振りを見せますが、この直後に楠木正行との戦いである四條畷の戦いが勃発しました。
これにより支払いが「うやむや」になったともされています。
高師兼が年貢を納めたのか、最後まで納めなかったのかは不明です。
尚、年貢の話だけを聞くと高師兼だけに非がある様に見えますが、鎌倉時代から既に年貢の未進の問題が発生していたとされています。
高師兼の最後
先にも述べた様に高師兼は四條畷の戦いにも参戦しており、高師直に従い各地を転戦する事になります。
観応の擾乱が勃発し、打出浜の戦いで敗れ尊氏と直義の間で和議が成立するも、武庫川では高師直や高師泰ら高一族の多くは命を落としました。
この時に高師兼も命を落とした事が分かっています。
高一族の多くの者たちと共に、高師兼も滅んだと言えそうです。
尚、高師兼の問題になっていた土地である村櫛荘は、直義派の斎藤利泰に与えられた事が分かっています。
ただし、斎藤利泰が年貢を払ったのかは不明です。