秦の文公は秦の襄公の子で、秦の竫公の父親でもあります。
秦の文公の治世は50年にも及び、この間に戎を討ったりしており、秦は勢力を多いに拡大しました。
この時代に秦は遷都したり、史官を設置したり、祭壇を建設するなど国内を整え飛躍的に勢力を拡大しています。
史記では岐山よりも東の地を周に献じたとありますが、秦の文公の時代には、岐山以東は秦の地ではなく、実際には無かったと考えられています。
それでも、秦の文公の時代に秦は飛躍的に勢力を拡大させた事だけは間違いなさそうです。
尚、秦の文公が余りにも長生きをしすぎたせいなのか、子の竫公の方が先に亡くなってしまい孫の憲公が後継者となりました。
秦の文公の時代に周の東遷は完了しており、春秋時代に突入する事になります。
遷都
秦の文公は即位した当初は西垂にいた事が史記の秦本紀に書かれています。
2年後に七百の兵を率いて、東方に狩りをし、さらに二年が経つと汧水と渭水が合流する地に行き、次の様に述べたと言います。
※史記秦本紀より
秦の文公「むかし周王は我が祖先である秦嬴をここに封じ、後には諸侯になる事が出来た」
秦嬴は秦の祖とも言うべき、非子であり、ここでいう周王は周の孝王を指すのでしょう。
秦の文公は、ここに住む方がよいのか吉凶を占わせました。
占ったところ「吉」と出たので、邑をここに営んだと記録されています。
秦の文公は遷都を行ったと見る事が出来ますが、新たに出来た邑の名前が史記には書いておらず不明です。
ただし、史記の文面に従えば「汧渭之会」を首都にしたという事なのでしょう。
さらに言えば、この時点で秦の文公の勢力圏が岐にまで及んだと考える事も出来ます。
秦の文公の時代に、秦の勢力は岐にまで達しました。
ただし、岐の全域を支配したなどの事はないと考えられています。
国を整備する
秦の文公は、その10年(紀元前756年)に鄜畤を作ったとあります。
鄜畤は祭壇であり三牢の犠牲を供えて祀ったとあり、宗教的な面での整備を行ったのでしょう。
さらに、秦の文公の13年には初めて史官を置き記録を司る様になりました。
秦の歴史を文字として残す事にしたのでしょう。
紀元前747年には陳宝を得て、紀元前739年には南山の大梓・豊・大特を討ったと言います。
南山の大梓・豊・大特は西戎の名前だと考えられています。
秦の文公は雍を中心とした祭祀施設を建設するなどし、三族を罪する法律を作るなど国内整備もしっかりと行いました。
秦の文公の時代に、秦の領土は飛躍的に拡大したとも言えるでしょう。
史記によると秦の文公が没すると、岐に西山に葬り、孫の憲公が立ったとあります。
最初にも言いましたが、秦の文公の治世が余りにも長く、子の竫公の方が先に亡くなってしまったのでしょう。
岐山以東を周に献じる
秦の文公の16年に、次の記述が存在します。
※史記秦本紀より
十六年、文公は自ら兵を率いて戎を討った。
戎は敗走した。
秦の文公は周の余民を集めて保有し、岐山を境界とし岐山以東を週に献じた。
上記の記述を普通に読めば、秦の文公の時代に秦の勢力は岐山に達し、岐山以東を周に献じた事になるはずです。
しかし、吉本道雅氏はこれが虚偽だと考えました。
秦の文公の三世代後の人物に、秦の武公がいます。
秦の武公の時代に戎の彭戯氏を討ち華山の麓まで行ったとあります。
華山の場所などを考えると、秦は武公の時代になっても岐山以東では、戎と激闘を繰り返していた事になるでしょう。
つまり、秦の文公の時代には、岐山以東の征服は完了しておらず、岐山以東を周に献じるのは不可能となります。
本当に岐山以東を周に献じたのであれば、秦の武公は周に献じた地を秦が再征服した事になります。
秦の文公の時代に岐山以東を献じたのは、秦の恵文王の時代に作られた創作だと考えられています。
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