今川泰範は今川範氏の子で、兄には今川氏家がいます。
駿河今川氏の三代目当主です。
本来なら家督を継ぐ人物ではなく、僧籍に入りました。
しかし、今川氏家が亡くなってしまった事もあり、駿河守護や遠江守護となります。
今川了俊とは余り仲がよくなかった話もありますが、今川了俊が危機に陥ると助命嘆願を行いました。
若き日の今川泰範
後に今川氏の三代目当主になる今川泰範ですが、当初は後継者になる予定もなかったのか、鎌倉の建長寺に入り喝食になったと言います。
喝食というのは、禅寺で食事の時に大声で知らせる役目であり、十歳くらいの美少年に美服を着せて、たれ髪で行わせるのが普通でした。
何歳くらいまで喝食をやっていたのかは不明ですが、これが若き日の今川泰範の姿だったのかも知れません。
今川泰範が駿河守護に就任
ここから環俗し、応安二年(1369年)5月までには、駿河守護に補任された事が分かっています。
兄の今川氏家が、この頃までに亡くなっており、今川氏の当主になったのでしょう。
今川泰範の叔父には今川了俊がおり、今川氏家は了俊の子である今川貞臣に守護職を与えたいとする意向があったとされています。
ここで、今川了俊は今川泰範を環俗させ駿河守護に迎えたと言います。
ただし、この話は今川了俊が著した「難太平記」に書かれている事であり、あくまでも「今川了俊がその様に言っている」程度のものだったとする見解もあります。
今川了俊が今川泰範の駿河守護就任に、何処まで関与していたのかは不明です。
因みに、祖父の今川範国はまだ存命しており、政治に大きく関わったとみる事も出来ます。
今川泰範が駿河守護になった当時は、足利義詮が亡くなり足利義満の時代となり、細川頼之が管領として政務を行っていた時代です。
足利義満の駿河下向
足利義満の時代の特色として、有力守護の勢力削減があります。
ただし、足利義満はやみくもに有力守護達を討伐しようとしたのではなく、諸国遊覧を積極的に行いました。
足利義満は至徳二年(1385年)に大和東大寺・興福寺の参詣を行い、厳島や高野山にまで足を運んでいます。
嘉慶二年(1388年)9月には富士遊覧と称し、駿河に下向してきました。
当然ながら、駿河に下向して来るわけであり今川泰範は、最大級のおもてなしをしなければならなかったはずです。
足利義満の駿河下向は今川泰範を警戒したわけではなく、鎌倉公方の今川氏満への牽制としての要素が強かったと言われています。
今川氏満は上杉能憲が亡くなった頃から野望を見せ始めたのか、上杉憲春が諫死したとする説もあります。
小山義政の乱への対応など、義満からしてみれば不穏な動きにも見えたのでしょう。
それと同時に今川氏満がおかしな行動をした時に、駿河守護の今川泰範には抑えになって貰いたかった部分もあるはずです。
足利義満は強権的な部分が強くあり、今川泰範としてもかなり気を遣ったと考えられます。
過去には足利義満の駿河下向は創作だとも考えられてきましたが、現在では事実だとする主張が強くなっています。。
幕府軍として各地を転戦
足利義満の有力守護の勢力削減政策により、明徳元年(1390年)に美濃の土岐康行を攻撃しました。
さらに、翌年には明徳の乱が勃発し、山名氏の勢力を削減する事に成功しています。
これらの戦いに土岐康行は幕府軍として参加し、大内義弘の応永の乱においても功績を挙げました。
この事は今川記にも書かれています。
応永の乱の後の論功行賞では、今川泰範が褒美として所領などを得た事も分かっています。
今川泰範と今川了俊
今川泰範は斯波義重に代わり遠江守護にも補任されました。
遠江守護は過去には1384年から1388年まで今川了俊が務めた経歴があります。
今川了俊は九州探題を務めており、懐良親王や菊池氏ら九州南朝の勢力を大きく後退させ、一時は九州に覇を唱えました。
しかし、問題もあり足利義満により九州探題を解任され、1395年に駿河半国守護となります。
今川泰範は鶴岡八幡宮や円覚寺の駿河国内の所領が押領されており、今川泰範は守護としての責任を取られ、駿河守護の半分を没収され今川了俊に与えられた経緯があります。
今川了俊としてみれば、九州の責任者でもある九州探題から駿河半国守護に格下げされており、足利義満に不満を覚え大内義弘や鎌倉公方の足利満兼らに接近したともみられています。
さらに言えば、今川泰範も今川了俊が足利義満に頼み込み、駿河の半国守護になったとも考えていた様で、今川了俊に対するフラストレーションも高かったようです。
今川泰範は応永の乱などで活躍しましたが、その裏では今川了俊が謀叛を働き掛けたとする嫌疑もありました。
今川了俊は挙兵はしませんでしたが、相模藤沢に追われ、後には鎌倉公方の足利満兼に謀反を働き掛けたとし、誅伐されそうになります。
この時に、今川泰範は私情を脇に置き助命に動いた話があります。
今川泰範がどの様にして助命嘆願を行ったのかは不明ですが、今川了俊は遠江の堀越に移住する事になりました。
助命嘆願は成功したのでしょう。
今川泰範の最後
今川泰範は応永十六年(1409年)に駿河国葉梨の花倉で七十七歳で没したとされています。
ただし、異説もありはっきりとしない部分もあります。
今川泰範の葬儀の時に大周周奝がよんだと思われる拈香が「三周集」に収められています。
大周周奝は京都の名が通った僧であり、今川泰範は京都で亡くなり、葬儀は京都で行われたのではないかとする説があります。
先代:今川範氏 | 今川泰範 | 今川範政 |