室町時代

上杉憲春は自害した関東管領

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宮下悠史

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名前上杉憲春(うえすぎのりはる)
生年不明生年不明ー1379年
時代南北朝時代
一族父:上杉憲顕
兄弟:憲将、憲賢、能憲、憲方、憲英、憲栄、岩松直国室、上杉朝房
コメント関東管領となるも謎の自害を遂げた。

上杉憲春は上杉憲顕の子で南北朝時代の人物です。

上杉憲春は刑部大輔となり、上杉憲顕が亡くなった後に出家(法名道弥)した事も分かっています。

上杉能憲の次に関東管領に就任しました。

上杉能憲が没すると、翌年である1379年に自害してしまいました。

上杉憲春の自害の理由は不明ですが、野望を見せ始めた足利氏満を諫める為の自害だったとする説もあります。

他にも、上杉氏内の争いと幕府内の細川頼之を巡る政争も重なり自害したとも考えられています。

足利氏満が本当に野心を見せたのかも不明な部分もあり、上杉憲春自害の真相は闇の中になっている状態です。

上野守護に補任

上杉憲顕が亡くなると、上杉能憲が関東管領になると同時に上野の守護も務めました。

しかし、上野守護が上杉憲春に代わる事になります。

上杉文書によると、上杉憲春が上野守護になったのは、父親である上杉憲顕の遺領配分ではなく、上杉能憲の計らいにより補任されたとあります。

応安四年(1371年)には上野守護だった事は確実です。

上杉能憲が1378年に亡くなると、弟の上杉憲方が上野守護となった様ではありますが、実務は上杉憲春が継続して続けたと見られています。

上杉憲春と関東管領

上杉能憲が亡くなる少し前に、上杉憲春は関東管領の代行を任されていました。

上杉能憲は重い病気になった話もあり、健康上の問題もあり上杉憲春に関東管領の代行を任せたのでしょう。

上杉憲春は上杉能憲が没すると正式に関東管領に就任しました。

さらに、武蔵守護になった文書まで存在しています。

上杉憲春の関東管領と武蔵守護の兼任は、慣例化する事になります。

尚、上杉能憲の遺領は上杉憲方が継承する事になりました。

上杉憲春の自害について

上杉憲春の最後

関東管領に就任した上杉憲春ですが、翌年の1379年に突如として自害し世を去りました。

上杉憲春の死は細川頼之が失脚する康暦の政変の直前であり、康暦の政変と関係しているのではないかとする説もあります。

他にも、謀反を考える鎌倉公方の足利氏満を諫める為に、自害したともされています。

上杉憲春の死に関しては様々な説がありますが、どれが正しいのかは分かっていません。

鎌倉九代後記の記録

鎌倉九代後記によると、京都にいる征夷大将軍の足利義満に対し、足利氏満が叛逆を思案する様になったと言います。

上杉憲春は鎌倉公方の足利氏満の行動を危ぶみ諫めましたが、足利氏満は受け入れませんでした。

足利義満は上杉憲春に書状を送り事態の収拾を求めますが、これを見た上杉憲春は門を閉ざす様になり自害したとあります。

鎌倉九代後記を見ると、足利氏満が足利義満に対し叛意があった事になっていますが、本当なのかは不明です。

ただし、当時は土岐頼康を討伐する命令が鎌倉府にも届いていた様であり、こうした混乱の中で足利氏満に対し色々という人は、いたとされています。

さらに言えば、足利義満は管領の細川頼之を信頼していましたが、細川頼之は斯波義将や土岐頼康ら反頼之派勢力も多くいたわけです。

反頼之派は細川頼之を排除出来なかった場合に、鎌倉公方の足利氏満を擁立し、対抗する計画があってもおかしくはないでしょう。

こうした背景もあり反頼之派が足利氏満を持ち上げ、上杉憲春が諫める形が出来ても不思議ではないはずです。

この説であれば、足利義満と反頼之派の板挟みとなり、上杉憲春は自害した事にもなるでしょう。

迎陽記の記録

迎陽記の三月七日の条に、上杉憲春が積もりに積もった鬱憤と狂乱により自害した話があります。

この話を見ると、精神的な病気で上杉憲春は自害してしまった様にも見えるわけです。

一般的には野望を見せ始めた足利氏満を諫死し自らの命を絶ったと言われていますが、上杉家内部の問題があったとする説もあります。

上杉憲将の嫡子の上杉憲将は、既にこの世の人ではありませんでした。

関東管領に就任した上杉能憲にも子がなく、上杉憲将と同母の上杉憲方の子である上杉憲孝を養子としています。

その一方で晩年には上杉憲方に家督を譲りました。

財産も上杉憲方に譲る様に定め、上杉憲春の財産も上杉憲方に集約出来る様に取り計らったわけです。

上杉家の中で立場を失くして行った上杉憲春ですが、鎌倉公方の足利氏満だけは上杉憲春を支持していたとも考えられています。

こうした中で上杉憲春が足利義満に対する反乱を知ってしまい、上杉憲春は自分の唯一の支持者である足利氏満に付き合い、無謀な戦いに参加するのか、唯一の後ろ盾である足利氏満を失うかの選択を迫られたとみる事も出来ます。

どちらに転んで破滅に向かうと考えた上杉憲春は、精神を病み狂乱し自害したとも考えられます。

上杉憲春の死の影響

それでも、関東管領が自ら命を絶つと言うのは異常事態であり、様々な噂が立ち足利氏満は後に足利義満に自筆の告文で謝罪しました。

上杉憲春の死の影響は大きかったのでしょう。

尚、上杉憲春死後の関東管領は上杉憲方となり、後に犬懸上杉家の上杉朝宗に継承されて行く事になります。

時間と共に将軍家と鎌倉公方の対立も、大きくなっていきました。

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