
秦の寧公は春秋戦国時代の秦の君主であり、秦の竫公の子でもあります。
祖父である秦の文公の在位は50年にも及び、この間に太子の竫公の方が先に亡くなってしまいました。
こうした事情もあり、秦の文公の孫にあたる秦の寧公が即位しました。

秦の寧公の時代に平陽に遷都し、亳王を破るなどしています。
寧公は幼少で秦の君主になっており、実権は大庶長の弗忌、威塁、三父が握っていたと考えられています。
寧公が亡くなると太子の秦の武公は後継者になる事が出来ず、出子が秦の君主として即位しました。
尚、秦の寧公は史記だと「秦の憲公」として書かれています。
活発に活動
秦の寧公は即位して2年後の紀元前714年に、首都を平陽に遷しました。
翌年の紀元前713年には亳王との戦闘があり、亳王を戎に敗走させ蕩社を滅ぼしています。
春秋左氏伝によると、紀元前708年に秦が芮に攻撃して敗れたとあります。
春秋左氏伝には、秦が芮に敗れた理由は「相手を軽視したからだ」とあり、芮では芮姜により君主の芮伯万が追放されており「国は乱れている」と判断し、介入に踏み切ったという事なのでしょう。
しかし、芮姜は女性ながらも軍を鼓舞し、秦軍を退けたとみる事が出来ます。
秦の寧公や三父は方針転換し、魏を攻撃し出奔中の芮伯万を手にし、秦に連れ去っています。
紀元前704年には、蕩氏を征服しました。
蕩社や蕩氏は西安付近の勢力として考えられています。
秦の寧公は即位して以来、活発に活動している様に見えますが、史記には憲公(寧公)が10歳で即位した話があり、大庶長らの大臣が実権を握っており、盛んに征伐を行ったのが現実ではないでしょうか。
秦の寧公の最後
秦の寧公は在位12年で亡くなったと史記に書かれており、22歳で亡くなった事になるでしょう。
史記には秦の寧公を岐の西山に葬ったと記録を残しています。
秦の寧公は22歳の若さで亡くなりましたが、武公、徳公、出子と3人の子がいました。
3人の子がいても、秦の寧公自身が22歳の若さで亡くなっており、武公、徳公、出子の三名の全員が幼少だった事でしょう。
秦の寧公は長男の武公を太子としていましたが、大庶長の弗忌、威塁、三父は武公ではなく、出子を即位させています。
史記によれば、武公と徳公の母親は同じであり、出子の母親が魯の姫子となっています。
秦の寧公と大庶長
秦の寧公の時代は先にも述べた様に、弗忌と威塁の三父が大庶長となり権力を握りました。
幼少で秦の寧公は即位したわけですが、君主が政治を行える様な年齢でなくても、秦の政治を回す仕組みが既にあったのではないかとも考える事が出来ます。
秦の寧公の時代は大庶長の弗忌、威塁、三父の時代でもあり、権力を大きく高めたとみる事が出来るはずです。
大庶長の3名は世族でもあり、世襲制だったともされています。
秦の寧公の時代に権力を高めた弗忌、威塁、三父らは、太子である秦の武公を廃嫡し、出子を後継者にする事が出来たのではないでしょうか。