
秦の武公は春秋時代の秦の君主です。
秦の寧公の太子となりますが、三父らの意向により、寧公の死後に即位する事が出来ず、弟の出子が秦君となりました。
後に三父らは出子を誅殺し、秦の武公が立ちますが、秦の武公は三父らを滅ぼしています。
秦の武公は小虢を滅ぼすなど勢力を拡大させました。
秦では秦の武公の時代に殉死が始まったとする記録が残っています。
秦の武公の即位
秦の武公は寧公の子であり、弟に徳公と出子がいる事が分かっています。
父親の寧公は紀元前704年に22歳で亡くなった事が分かっており、弟の徳公が紀元前710年に生まれ、さらに下の弟の出子が紀元前708年に生まれた事が分かっています。
寧公は明らかに若くして亡くなっており、秦の武公の誕生は紀元前710年より前という事になりますが、年齢に関しては弟の徳公と殆ど変わらなかったのではないでしょうか。
秦の寧公の時代に権力を握ったのは大庶長の弗忌、威塁(官名)、三父らであり、寧公が亡くなった時に、太子の武公は秦の君主になる事が出来ず、弟の出子が即位しました。
しかし、何があったのかは不明ですが、三父らは出子を誅殺し、武公が即位する事になります。
ただし、出子が亡くなったのが11歳であり、秦の武公は15歳以下で即位した可能性が高いのではないでしょうか。
秦の武公の元年である紀元前697年に彭戯氏を討ち、華山の麓に行き平陽の封宮にいたと史記に書かれていますが、三父らの意向が大きかった様に感じています。
秦の武公が三父を打倒
紀元前695年に秦の武公は三父らを滅ぼし、その三族を平らげたとあります。
史記によれば秦の武公は出子を誅殺した罪を問い、三父らを誅したとあります。
三父らは太子を代える程の政治権力を持っていたわけであり、秦の武公にとっても目障りな存在でもあったのでしょう。
それと同時に、秦の大臣たちの間で、三父らに対する見方も厳しくなっていたと考える事が出来ます。
秦の武公は反三父の勢力の力を借りて、三父らを誅殺してしまったのでしょう。
三父らを打倒した事で、秦の武公は富の再分配に成功したとも言えそうです。
勢力拡大
秦の武公は紀元前688年に邽や冀を討ち県を設置したとあります。
さらに、翌年である紀元前687年には杜、鄭にも県を設置し、小虢を滅ぼしたとあります。
ここで言う鄭は東に移る前の、鄭の故地を指すのかも知れません。
小虢に関しては、周王朝と同族の姫姓の国だと考えられています。
たたし、小虢は異民族の国とする説もある様です。
この頃には秦の武公は成人になっていたはずであり、自らが主導し事を起こしたのでしょう。
尚、史記の秦本紀には秦の武公の時代の出来事として、鄭の昭公が高渠弥に殺害された事や、斉の管至父と連称が主君の襄公を誅した事、斉の桓公が覇者になった事、晋が霍、魏、耿の三国を滅ぼした事などが記録されました。
秦の武公と殉死
秦の武公は在位20年に亡くなったと記録されています。
紀元前678年に、秦の武公は亡くなった事になるのでしょう。
秦の武公は雍の平陽に葬ったとあります。
史記には注目すべき記述があり、秦の武公が亡くなった時に、始めて人を殉死させ、亡くなった者が66人いたとする記録があります。
秦の穆公が亡くなった時に、殉死者が出て秦が弱体化した話がありますが、史記の記述が正しければルーツは秦の武公の時代にあった事になるでしょう。
秦では君主が亡くなると、大量の殉死者が出てしまい国の発展に大きな足かせとなった話も残っています。
秦の武公には、白という子がいましたが、後継者は弟の徳公となりました。
白は後継者として秦の君主になる事はなく世を去っています。
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