
斉の襄公は春秋時代の斉の君主です。
魯の桓公や鄭の子亹などを暗殺した話しや、文姜との関係なども指摘されており、素行が悪く無道な君主とされるのが一般的ではないでしょうか。
確かに、斉の襄公には強引な手法が目立ちますが、諸侯同盟を復活させ、斉覇を再興した人物でもあります。
政策としては、斉の僖公を引き継いだ事になるのでしょう。
ただし、最後は公孫無知により、無残な最期を迎えました。
絶頂期に亡くなってしまった斉の君主でもあります。
斉の襄公と公孫無知
史記によると、斉の僖公は公孫無知を寵愛し、太子である諸児(斉の襄公)と同等の待遇をしました。
諸児にとってみれば、公孫無知が太子である自分と同等の扱いをされるのは不満があった事でしょう。
諸児は斉の僖公が亡くなると、斉の君主として即位しますが、公孫無知の俸禄や服飾を引き下げました。
斉の襄公としては、公孫無知を好待遇にする事は、国が乱れる原因と考えたのかも知れません。
しかし、公孫無知の方は納得を行かず、斉の襄公を恨む事になります。
斉の襄公と魯の桓公の会見
斉の襄公の元年である紀元前697年に、魯の桓公と艾で会見を行っています。
会見の内容は鄭の混乱に乗じて、復興した許を安定させる為の相談でもあります。
魯の桓公の夫人が、斉の襄公の妹であり、斉の襄公から見れば、魯の桓公は義弟となります。
それと同時に、この年は鄭の昭公が鄭公に復帰した年でもあり、鄭の昭公が過去の怨恨から魯を嫌っていた事で、鄭魯関係は悪化しました。
鄭魯関係の悪化に伴い魯の桓公が、斉の襄公に接近した部分もあるのではないでしょうか。
黄の盟と奚の戦い
紀元前695年に黄で魯の桓公の斡旋により、斉の襄公と紀侯が講和を果たしています。
斉の襄公にしてみれば、紀を滅ぼしたいと考えていましたが、魯は阻止しようと考えたのかも知れません。
さらに、衛の問題を相談したとあります。
前年に衛の恵公が斉の襄公の元に出奔しており、衛の恵公を再び衛の君主として返り咲かせる為の相談でもあったのでしょう。
黄の盟が行われた年に、春秋に「斉師と奚に戦う」とする記述があります。
斉と魯の間で奚の戦いが起きた事を指します。
ただし、春秋左氏伝の伝文によると、辺境での局地戦であり、大した戦いではなかった様な事が書かれています。
しかし、後の事を考えると、奚の戦いは重要な戦いであったとする説があります。
魯の桓公暗殺事件
斉の襄公と魯の桓公に何があったのか
紀元前694年正月に春秋では、魯の桓公が濼で斉の襄公と会合を行った話があります。
この時に、魯の桓公は夫人の文姜を同行させました。
斉では、斉の襄公と文姜が密通したとあります。
斉の襄公と文姜は兄と妹であり、近親相姦を行ってしまった事になるのでしょう。
この話は史記にもあり、魯の桓公の耳に入り、文姜を責めました。
文姜は魯の桓公の事を、斉の襄公の耳に入れると、斉の襄公は彭生を使い魯の桓公を殺害しています。
春秋には斉の襄公が魯の桓公を殺害したのは、4月だとあります。
さらに、斉の襄公は罪を彭生に擦り付けたのか、彭生も処刑してしまいました。
斉の襄公は翌年である紀元前693年には、鄭の君主である子亹と家臣の高梁弥も斉にやってきた所で殺害しています。
これが史実であれば、この頃の斉の襄公は諸国に悪名を轟かせていた事になるのでしょう。
斉の襄公は無道なのか
斉の襄公により魯の桓公暗殺事件は、斉の襄公の無道さを際立たせている事件ではないでしょうか。
しかし、落合敦思氏は、魯の桓公暗殺事件の前年に、斉と魯が交戦している事に着目しました。
斉の襄公と魯の桓公の会合は義兄弟の懇親が目的ではなく、戦後の講和会議ではないかと考えたわけです。
春秋左氏伝では奚の戦いで、魯の桓公は「報告するまでも無い様な戦い」としましたが、実際には講和会議を行う程の戦いだったと落合氏は見たのでしょう。
実際に斉の桓公は正月に斉を出発したのに、亡くなったのが4月であり長期間に渡り斉に滞在した事になります。
親睦が理由で斉に行ったのであれば、余りにも長すぎると言えるでしょう。
長期間滞在した理由は、講和が中々纏まらなかったからだとも考える事が出来るはずです。
こうした中で、斉の襄公は強硬手段に出て、魯の桓公を暗殺してしまったとみる事が出来ます。
尚、魯の桓公が亡くなった翌年に、夫人の文姜が斉に亡命しており、関わっていた可能性は高いと考えられています。
春秋の本文には、斉の襄公と文姜が兄妹で密通したとは書かれておらず、創作ではないかともされています。
当時の中国では同姓不婚を認めない制度もあり、斉の襄公に対する悪意から捏造されたとみる事が出来ます。
実際の魯の人々は、君主の桓公が殺害された事実があるわけであり、斉の襄公の事は良くは思っておらず、悪い噂も流れた事でしょう。
斉の襄公は史記や春秋左氏伝で言う程は、無道な君主ではなかった様にも感じています。
尚、魯の桓公は暗殺されてしまいましたが、後継者は文姜との間の子である魯の荘公が立ちました。
斉と周の婚姻
春秋によると、紀元前693年の秋に王姫が斉に嫁いだとあります。
春秋左氏伝の伝文はありませんが、斉の襄王と周の荘王の間で婚姻が成立したという事なのでしょう。
それと同時に、東周王朝では斉の襄公を小伯として認めたとも考えられています。
魯の桓公が亡くなった事で、周の荘王は小伯を追認したともされているわけです。
斉の襄公が紀を併合
紀元前692年に紀侯の弟の紀季が酅と共に、斉に帰属する事件が起きました。
紀季の降伏を斉の襄公は受け入れたのでしょう。
これにより紀は国土の大部分を失ったとも考えられています。
紀元前690年に紀侯が、斉に降ろうとしますが、上手くは行かなかった話があります。
春秋左氏伝の記述は簡略ですが、斉の襄公が紀の降伏を拒否したという事なのでしょう。
紀侯は紀の国を弟の紀季に譲ったとあり、紀季は既に襄公に降伏しており、紀は斉に併合されてしまった事になります。
尚、史記では斉が紀を討ち、紀はその都邑を去ったとあります。
斉覇の再興
話は前後しますが、春秋左氏伝によると、紀元前691年に斉が衛を討った話があります。
斉の襄公は斉に亡命していた衛の恵公を、国に戻す為に行動を起こしたのでしょう。
魯の荘公は斉の軍に公子溺を参加させ、斉による紀の併合を阻止するために、滑で鄭と会見を行いますが、不調に終わりました。
鄭は国内の混乱を理由に、魯の要求を拒否した事になります。
紀元前690年に斉の襄公は、陳の宣公、鄭の子嬰と垂で会見を行いました。
さらに、この年に魯の荘公が斉人と狩りを行った話があり、先君の仇でもある斉の襄公に屈したとも考えられています。
斉の襄公は多くの諸侯と同盟しており、魯は孤立を恐れて斉の襄公を盟主とする同盟に加わったとも言えるでしょう。
紀元前689年には斉の襄公が斉、魯、宋、陳、蔡の軍で衛を攻撃しました。
この時に、春秋左氏伝には周王が子突に黔牟を救援させた記録があり、東周王朝と斉は敵対した事になります。
紀元前689年であれば、斉の襄公と対立した周王は周の荘公でしょう。
孤立した黔牟が東周王朝に助けを求めたと考えられますが、東周が何故、黔牟を助けたのかは不明です。
斉の襄公は黔牟を衛から追い出し、恵公を復位させる事に成功しました。
斉の襄公は明らかに諸侯同盟を結成しており、斉覇を再興したと言えるはずです。
さらに、紀元前686年に斉は魯と共に。郕を降しています。
斉の襄公の最後
斉の襄公の最後は、史記や春秋左氏伝に記録されています。
斉の襄公は過去に連称と管至父に葵丘の守備を命じ、瓜の実のる頃に出発し、翌年に瓜が実ったら交代させると約束しました。
連称と管至父は葵丘に行き、約束の期日が来ますが、交代する者が来なかったわけです。
これを不憫に思ったのか、ある人が連称と管至父の為に、斉の襄公に交代の者を葵丘に行かせる様にと進言しますが、襄公は許しませんでした。
公孫無知は斉の襄公に冷遇されていると感じていましたが、連称と管至父は公孫無知を支持する様になります。
紀元前686年に斉の襄公は沛丘で狩猟を行いますが、大きな豚が現れ従者は「彭生だ」と言い放つと、襄公は怒って弓矢を射ました。
この時に豚は人間の様に立ち上がり鳴いたと言います。
斉の襄公は恐れて車から転落すると、足を負傷し履を失くしました。
宮中に帰ると、斉の襄公は靴係の費を鞭で打つ事になります。
費は宮殿の外に出ますが、公孫無知、連称、管至父が斉の襄公に攻撃を加える所でした。
費は公孫無知らの味方をする振りをしますが、宮中に入ると斉の襄公に状況を告げて逃がそうとし、宮人らと共に公孫無知らと戦いますが、結局は敗れて戦死しています。
斉の襄公は隠れていましたが、ある者が戸の間に人の足を見つけました。
ここを探してみると、斉の襄公がおり、一気に殺害されてしまったわけです。
斉の襄公は覇者体制を再興した君主と言えるはずですが、公孫無知により呆気なく世を去ったと言えるでしょう。
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