
晋の鄂侯は春秋左氏伝の晋の本家の君主です。
鄂侯の時代は分家の曲沃との対立もあり、晋の本家は苦しい立場となります。
史記では鄂侯は普通に亡くなったかのような記述となっていますが、春秋左氏伝では周の桓王や曲沃の荘伯に攻められ、随に逃亡したなどの記述があります。
春秋左氏伝では鄂に行き、その後の行方が分からなくなっている状態です。
今回は史記と春秋左氏伝の記述を元に、晋の鄂侯について解説します。
晋の鄂侯の即位
晋の鄂侯は晋の孝侯が亡くなった事で、即位しました。
晋の孝侯は正確な状況は不明ですが、曲沃の荘伯により殺害されたとあります。
晋の国人たちが曲沃の荘伯を破った事で、荘伯は本拠地の曲沃に戻ったわけです。
晋の鄂侯は晋の人々によって立てられた事が書かれていますが、慌ただしく晋君の位に就いたのではないでしょうか。
尚、晋の鄂侯が曲沃の討伐を行った記録がなく、首都の翼と曲沃の勢力の軍事力は拮抗もしくは、曲沃の方が上だったのかも知れません。
史記では鄂侯の2年に魯の隠公が立ったとあります。
この年から春秋左氏伝が始まる事になります。
曲沃との戦い
春秋左氏伝によると、紀元前718年に曲沃の荘伯が鄭や邢と共に、翼を攻撃し周の桓王は尹氏や武氏に命じて曲沃の荘伯を助けた事になっています。
曲沃の荘伯は上手くやり、翼の鄂侯の勢力を孤立させ、晋の本家を討ったのでしょう。
鄂侯は荘伯の攻勢に耐えきれずに、随に逃亡しました。
なぜ、鄂侯が遠く離れた随に逃亡したのかは不明です。
しかし、周の桓王と曲沃の荘伯の間で揉めたのか、周の桓王は虢国に命じて、曲沃の荘伯を攻撃しました。
周の桓王は隋から鄂侯から呼び出す事をせず、鄂侯の子の哀公が立つ事になります。
尚、史記の晋本紀を見ると、鄂侯が随に逃亡した記録も無く、紀元前718年に鄂侯が亡くなり、晋の哀侯が即位した事になっており、内容にズレが生じています。
さらに、鄂侯が亡くなった事を知ると、曲沃の荘伯が翼を攻撃した話がある状態です。
ここから、先は春秋左氏伝に従って話を進めていきます。
鄂侯はどうなったのか
春秋左氏伝によると、晋の本拠地である翼の九宗五正の官にいた頃父なる人物がいました。
紀元前717年に頃父の子の嘉父は、鄂侯を亡命先の随から迎えて鄂に送り込んだと言います。
嘉父が鄂侯を随から迎えた理由や、鄂に送り込んだ理由は記録がなく分かっていません。
既に本家の方では鄂侯の子の晋の哀侯が立っていましたが、既に哀侯がいる以上は晋の君主として認めるわけにはいかなかったのでしょう。
かと言って、晋から遠く離れた随に置いておくわけにも行かなかったのでしょう。
春秋左氏伝によると、鄂に送り込んだ事で、鄂侯と呼ばれる様になったとあります。
これを信じれば晋の鄂侯の「鄂」は、諡ではなく、鄂にいたから鄂侯と呼ばれる事になったのでしょう。
鄂侯はこの直後に亡くなってしまったのか、紀元前718年の春秋左氏伝の記述を最後に行方が分からなくなります。