
趙の武侯は趙の烈侯の弟であり、兄の烈侯が亡くなると趙の当主になった事が史記に記載されています。
史記の趙世家から分かる事は、兄の烈侯の死後に趙の武侯が後継者になり、趙の武侯が亡くなると兄の烈侯の太子であった趙の敬侯が当主になったという事だけです。
趙の武侯は「武公」と書かれる事もあり、実際には趙の当主になってはいなかったのではないか?とも考えられています。
趙の武侯は「文」に次ぐ格式が高い「武」が諡になっている割には、謎が多いと言えるでしょう。
史記の趙の武侯の記述
史記の趙世家によると、趙の烈侯が亡くなると、弟の武侯が立ったとあります。
これが趙の武侯であり、趙の烈侯の弟であると同時に、父親が趙の献侯だという事も分かる記述です。
趙の武侯は即位したわけですが、史記には業績が書かれておらず、その13年に亡くなったとあります。
一般的には紀元前387年に死去した事になっています。
趙の武侯が亡くなると烈侯の太子章が君主となり、これが趙の敬侯だと記録されています。
趙の世家の記述からは、趙の武侯の記述は簡略であり、分かる事は殆どありません。
趙の武侯について
趙の武侯ですが、史記の記述を見る限りでは、趙の烈侯の弟であり、本来であれば当主になれなかったのではないでしょうか。
趙の烈侯の太子は姫章ではありましたが、年が若く趙の大臣らは、弟の趙の武侯に立って貰った様に感じました。
紀元前403年に趙は魏や韓と共に諸侯となりますが、時代は混迷の時代であり、幼少の君主では国が乱れると危惧した大臣達が、趙の武侯に中継ぎの君主としての期待が高まった様に思いました。
趙の武侯は特に野心も持たず、太子を甥の姫章にし、一生を終えたと感じました。
史記を見ると趙の武侯は名前すらよく分からず、趙の中継ぎの当主としての意味合いが強かった様に感じています。
日本で言えば、光明天皇や花園天皇の様な人物だったのではないでしょうか。
ただし、別説も存在しており、趙の武侯は武公と書かれる場合もあり、趙の当主になっていなかったのではないか?とする説も存在しています。
兄である趙の烈侯は史記では、紀元前400年に亡くなっていますが、実際に亡くなったのは趙の武侯が亡くなったとされる紀元前387年だったのではないかとする説が存在するという事です。
この辺りは、史記の記述が混乱があったのか分からない部分が多いと言えるでしょう。